2017年御翼12月号その1

                           

21世紀のサムライ

 戦前、満州に移住した中島家(仮名)の、親子四代にわたる物語を、米国人宣教師チャールズ・コーウィンが『21世紀のサムライ』(築地書館)に記している。中島次郎(戦前、兄の中島勝吾郎がシベリアでYMCAの米国人職員と親しくなる)―進太(陸軍士官学校)―豊(早稲田大学、親の知人である宣教師を通してクリスチャンになる)―純子(ICUで信仰を復興)の四代である。著者は日本人と日本軍の行動を題材に、武士道の良さと欠けている点を著わしている。
 
 日本人の「心」のあり方に武士道は重大な役割を果たしていることは確かである。質実剛健で忍耐強く、自己鍛錬を怠らない。他人や組織への忠誠心と協調性、高い理想などは、武士道の徳目である。これらは一面、キリスト教の精神と通じる。世俗的欲求を退け、高邁に徹する生き方、同胞に対する献身的な愛などは、聖書で説かれている姿勢と重なっている。一方で、武士道の限界として著者は、時間や空間を超えた「普遍なるもの」が見出せない点であるという。明治後半以降、日本が何度も選択した「戦争」という一外交手段に国民は翻弄され、「何を規準にして生きるべきか」が問われることとなる。その中で、国や軍の方針に、ただ従うのではなく、自ら真理を求めた人々もいた。
 二代目の進太は、陸軍士官学校を出て沖縄に派遣された。進太と配下の者たちは食糧と水、ライフルと弾薬を携え、天然豪(ガマ)の中に潜んでいた。米兵は次々と洞窟を見つけては、火炎放射器で攻撃してくる。進太たちが潜む洞窟の入り口に、炎がいよいよ近づいてきたとき、進太は用心深く忍ばせてあった白い手拭いを取り出した。部下の一人が「おやめください!」と叫ぶと、進太はどなりつけた。「止めるな!このままでは全員灰になるだけだ。灰になって、日本国にいったい何の貢献ができる。堪えがたきを堪えることこそ、真の忠誠だ」と。進太は洞窟の入り口に向かって走り出すと、銃剣の先に巻き付けた白い手拭を必死に振り回した。果たして炎は潮の引くように遠ざかり、やがて消された。つかの間の嘘のような静寂の中、両手を上げ、神妙に洞窟から出て行く進太に、怯(おび)えた表情の部下たちが続いた。彼らにとってこの時、戦争は終わった。
 このときの、進太の頭には、かつて聞いたサムライの逸話が浮かび上がっていたという。一世紀近く前、会津で維新派と戦った白虎隊のメンバー・井深梶之助のことである。維新軍が城を包囲したとき、白虎隊は伏兵をおくため、森に忍び込んでいったが、井深はまだ若すぎると、あとに残された。伏兵は結局総崩れとなり、森からは一人として帰りつくものがなかった。井深は藩主を失い、生きる目的も失う。そして、たまたま行き着いた横浜で彼は、自決用にと取っておいた刀を売って英語辞典に替え、毎週日曜日の朝、ヘボンの施療院で行われる授業に出席するようになる。そんな井深はのちに、日本人で初めての明治学院総理に就任している(この井深梶之助が、ソニーの創立者・井深 大の祖父)。
 サムライに信仰と希望と愛(無条件の愛)をプラスした人たちが、21世紀のサムライになるべきである。信仰と希望と愛こそが、我々をより高い世界に導いてくれる。そして支離滅裂に見える一人ひとりの過去に意味を与えてくれるのだ。21世紀のサムライはどこにいるのだろう。確かに、街角で声を張り上げたり、電車の中でとなりの席からいきなり信仰の話題を持ち出してきたり、ということはないだろう。しかし彼らは、その振る舞いによってきっと読者の注意を引くことだろう。学校教師、大学教授、研究者、銀行家、建築家、ケーキ職人、原子力技師、言語学者、芸術家、ファミリー・カウンセラー、牧師、環境問題専門家、設計士、大使館員、国家(地方)公務員、対外援助スタッフ、企業家など…。彼らは日本各所に散らばって働いている。私はその彼らの何人かを実際、知っている。21世紀のサムライは社会に奉仕するため、「自己」への束縛から解き放たれている。評判にも対立の構図にも、個人的な損得勘定にも影響を受けない。逆に、与えられた仕事に自らの身体を、知力を、そして精神を惜しみなく捧げることができる。その生活は他人の生活と分かちがたく結びついている。他人と悩みや喜びを共有することに、意味を置いているのだ。そうすることで、二十一世紀、日本人が世界の表舞台で指導的な役割を果たす事ができる。

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