2017年御翼12月号その3

                           

特攻機「桜花(おうか)」と「0系新幹線」の設計者、三木忠直さん

 旧日本海軍に、「桜花」というロケット特攻機があった。「桜花」は、自力での離陸はできないため、爆撃機の腹の下に吊るされ、目標に接近したところで空中発進する。機首には1トン爆弾がつけられ、当時はどの戦闘機でも追いつかない時速八百キロの高速で敵空母に体当たりする特攻専用機である。設計を担当させられた海軍航空技術廠(しょう)の航空工学者・三木(みき) 忠直(ただなお)さんは、そんな人間ミサイルは作りたくないと、強く反対するが、本省からの命令に従わざるを得なかった。この秘密兵器「桜花」も、米軍のレーダーに捕捉され、敵艦隊の遥か手前で待ち受けていたグラマン戦闘機に、桜花が母機から引き離される前に、全機撃墜され、百数十名の搭乗員が戦死した。その後、全部で10回の出撃があったが、桜花のパイロット55名が戦死、その母機の搭乗員は365名が戦死している。戦果としては、米駆逐艦1隻を撃沈、他6隻にダメージを与えた。
 「軍の命令があったとはいえ、私の設計した飛行機で、多くの若人が国のために散っていきました。そのことに深く心が痛む日々でした」と、三木さんは敗戦後、自己嫌悪と後悔の日々を送る。そんな三木さんを救ったのはキリストの言葉だった。ミッションスクールの東京女子大学で学んだ三木さんの姉は、クリスチャンになっていた。その姉や、同じくクリスチャンとなった母や妻の勧めもあり、三木さんは当時、東京女子神学校校長だった渡辺善太の門をたたく。三木さんの悲痛な訴えに渡辺先生は「凡て労する者・重荷を負う者、われに来れ、われ汝らを休ません」(マタイ11・28文語訳聖書)の聖書の言葉を示した。「その御言葉に出会い、救われました。そこから私の人生は変わったのです」と言う三木さんは、敗戦の年の12月、洗礼を受けた。
 「とにかく戦争はもうこりごりだった。自動車関係にいけば戦車になる、船舶にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんです」と言う三木さんは、自分の技術を戦争に使わせないと誓う。そしてたどりついたのが、旧国鉄の鉄道技術研究所(JR鉄道総合技術研究所の前身)だった。軍用機で培った設計技術を、何としても鉄道のために使いたいと祈る三木さんが出会ったのが、新幹線開発プロジェクトである。当時、東京―大阪間は蒸気機関車で7時間30分もかかっていた。そのため、将来、長距離移動には飛行機や自動車が使われると予測され、鉄道の斜陽化が言われた。三木さんたちの鉄道技術研究所は、東京―大阪間を3時間で結ぶ「夢の超特急構想」についての講演会を開く。飛行機の技術を用いて「車両の軽量化と空気抵抗の低減を行えば、最高時速は200キロを超えます」と説明した。三木さんが高速列車の実現性を力説し、新幹線プロジェクトが動き出す。特に先頭部分は、三木さんの指導の下、航空機のような流線型となった。
 昭和38年(1963)、0系新幹線が完成、試験走行で256kmの世界最高速度を記録した。新幹線の技術は、その後の超高速列車の基本モデルとなり、世界中から目標とされる存在であり続けている。90歳を過ぎても毎週日曜日の礼拝に出席しておられた三木忠直さんは、(鎌倉雪ノ下教会員)、2005年、95 歳で天に召された。
 最近、発見された図面で、桜花には脱出装置が考案されていたが、採用に至らなかったという。三木さんは、どうしても乗員を助けたいと思っていたのであろう。以下は、三木忠直『神雷特別攻撃隊』からである。大戦は死に物狂いの新兵器の開発を通して科学技術・物質文明の飛躍的な発展を遂げさせる。事実、第一次大戦では飛行機、戦車(無限軌道=キャタピラ)の実用化、今次大戦ではジェット機、ロケット、原子爆弾(原子力)、レーダー等の出現がめぼしいものであろう。しかしそれらから発展した戦後の多くの成果も、果たして世界大戦という代償に値するだけの幸福を人類にもたらしたであろうか。永遠の平和が人類の願いであるにもかかわらず、終戦後地球上のどこかで局地戦は未だにつづいている。人間の救いがたい罪であろうか。「天には栄光、地には平和」を切に祈願しつつ筆を擱(お)く。

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