2017年御翼3月号その2

                           

御声を聞くために

 海軍兵学校75期のクリスチャン、一柳高明氏が、ルツ・パクソン著『生ける水の川』(いのちのことば社)を訳した。本書では、御声を聞くために、以下のようにアドバイスする。

多くのキリスト者は、神の霊が御言葉によって、直接豊かな糧を与えてくださることを信頼せず、直ちに御言葉を慕って魂の糧を求めることをしません。自らの魂に欠くことのできない魂の栄養物を人間の教師にだけ求めて、その差し出すものをかまわずうのみにしているのです。すでに消化吸収された食物に寄生している霊的寄生虫で、当然、栄養不良で貧血症です。この衰弱した状態にあって、彼はあらゆる種類の霊的な病気に対して全然抵抗力を持っていません。従って、たやすく感情の爆発、不純、不潔、わがままなどのよいえじきになってしまいます。
キリスト者は、ひとり残らず聖なる生涯を歩むために神に召されているのです。聖なることとは、罪のかけらさえ見出すことのできない完全さをいうのでもなければ、罪の性質を根こそぎにしてしまうことでもありません。また、罪を犯す可能性のかなたに人を運び去ることでもないのです。聖書の聖潔とは、欠点のないことをいうのではなく、人が神の目に責められるところのない状態にあることをいうのです。私たちはキリストの再びこられる日まで責められるところのない者として守られ、そのこられるとき、傷のない者として立つことができるのです。
この真理が新しい意味をもって私に啓示されたのは、私の深く愛していた姉が神のみもとに召され、その遺品を整理するように依頼されたときのことでした。(その中に)私が七歳のときに彼女にあてて書いた手紙が発見されたのです。そのとき、彼女はどこかにでかけていて、この姉を特に慕っていた幼い私が、さびしさに耐えきれずに書いたその手紙は、私の心の愛情のせいいっぱいの表現なのでした。その手紙は…書き方はたどたどしく、文法は不正確で、つづりは間違いだらけでした。しかしそれは、姉の目には責められるところのないものであったのです。なぜなら、それは愛の心のほとばしりであり、私の書きうる最上のものであったからです。

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