2017年御翼4月号その2

                           

「どう暮らすか」と「どう生きるか」

 友納徳治牧師は、著書『わが魂よ、水源(みなもと)へ帰れ』で、以下のように述べておられる。

  「どう暮らすか」は、何を持っているか(学歴、資格、衣食住など)、何を実現できるか(財産、業績、成功など)の問題である。一方、「どう生きるか」は、自分は何のために生まれ、何のために生きているのかを問題とし、これらの諸問題が人を疲れさせ、不安を感じさせる。
 人は、「自分は何者なのか、自分はどこからどこへ行こうとしているのか」という不安にかられる。動物にはこの「不安」はないという。生き物は、危険を感じて恐れることはあっても、生きる意味を問う不安はないのだ。しかし、この人間特有の「不安」は、神さまから来る霊的なメッセージなのだ。「どう暮らすか」ばかりに気を取られて、「どう生きるか」という本質的な問題に気づかせる目覚まし時計の役割を果たすのが「不安」である。だから、キルケゴール(デンマークの哲学者・神学者)は、「人は、不安を危機として、日常的世界(どう暮らすか)へ体験が深められ、自分の罪を自覚し、より深く確かな信仰へと導かれる」と言っている。そして、自分が何者なのか、いったいどこへ行こうとしているのかがわからずに苦しむ人に対し、イエス様は、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11・28)と言っておられるのだ。私たちはキリストに希望を置いて生きれば、「どう生きるか」の問いに答えが与えられる。

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