2018年御翼1月号その2

                           

日本国民として、戦争に協力しました ―主婦之友社の石川武美

 1917年(大正六)、「主婦之友」を創刊したのは、クリスチャンの石川武美(たけよし)(1887~1961)である。(石川武美の孫のとも子の夫は、政治家・与謝野馨。与謝野馨は、受洗していないが、カトリックの影響を強く受けているという。与謝野馨は歌人・与謝野晶子の孫)。石川は17才で大分から上京し、書店員となる。その間に求道し、1907年(明治四十)、日本組合本郷基督教会で海老名弾正牧師から受洗し、忠実な教会生活を送った。家庭を遠く離れて寂しい生活をしていた者として、教会の穏やかな温かさから、日本の家庭のために働きたいという念願を抱いたと、後に石川は記している。「主婦之友」は、家庭生活に関する実用的な記事、家庭内の悩みや告白など、読者の身近な記事を掲載し、3年後には当時の日本雑誌界第一位の発行部数を記録した。石川は、「信仰は思想でなく生活である」と、自らは一汁一菜、中古服、丸刈頭、原稿用紙は裏面で使うという質素な生き方を実行し、社員の給与は惜しまず極めて高かった。また、教会の会堂建築のために昭和11年に7千余円を寄付している。石川は、東京女子大の理事や婦人のためにお茶の水図書館(現・石川武美記念図書館)を設立するなど、女子教育にも貢献した。
 昭和12年、日本軍が上海、南京を占領する。当時の主婦の友社の姿勢は、「戦争は望まぬ。しかし、国家の最高方針が決定した以上は、その線に沿って協力しなければならぬ」というものであった。この頃、主婦の友社では、毎日15個ずつの慰問袋を作り、戦地に送りだした。中には石鹸、歯磨きなどの日用品を十種ほどと、「主婦之友」の最新号を入れていた。また、昭和15年(1940)、主婦の友社は、寄付金を募集し、陸軍に戦闘機を一機、献納している。
 敗戦後、石川はアメリカ占領軍の当局から呼ばれ、「お前は戦争に協力したか」と聞かれる。これは、どの日本人にも聞く質問であったが、敗戦直後の日本人の多くは、「戦争には反対であった」「戦争には協力しなかった」と答えれば、占領軍当局からほめられる、と思っていた。しかし、石川は、「日本国民として、戦争に協力しました」と、はっきりと答えた。クリスチャンの石川は、自分を偽ることができず、神の国の平和を知っていたために、人を恐れることもなかった。尋問をした民間情報局長のダイクという代将(大佐の上の地位の将官)が、「それは本当か」と聞き返してきた。そして、「ここにくる日本人の、殆どすべてのものは、『私は戦争には反対であった。戦争には協力しなかった』という。戦争に協力したと、明言したのはお前が初めてだ。その勇気と正直は、日本の再建のためにぜひ必要だから、『主婦之友』は廃刊しなくともよい」と言った。当時、「主婦之友」は日本の人たちによって、悪評をたてられ、廃刊せよという声が盛んな時であった。昭和23年、石川は公職追放を受けたものの、2年後には「主婦之友」の経営に復帰、同誌は、戦後の婦人の暮らしを助ける実用的な記事を掲載した(2008、休刊)。
   占領軍のダイク代将により、「主婦之友」の出版を続ける許可を得たときのことを、石川はこう述べている。「アメリカ占領軍のなかにも、神の道を心得るものがあったということは、私にとっても、うれしいことであった」と。互いにキリストの恵みを知っている者が赦し合い、平和が実現したのだ。晩年の石川は、「信仰雑話」(一九五九年刊)にこう記している。「日本の再建は、『どうして敗(ま)けたか』という反省からはじめねばならぬ。更にさかのぼれば、『なぜ戦争をしたか』ということを反省せねばならぬ。そして戦争の原因となるものは、根こそぎ除かねばならぬ。この戦争は日本の過ちであった。過ちを犯すものは、また立ちなおることができるはずだ。若い日本の悲しい過ちだ。世間しらずの無謀だ。謙虚な気持ちで反省して、そこから元気よく立ちあがるのだ。反省があれば懺悔(ざんげ)をせねばならぬ」と。

[参考文献]
高野勝夫編著『日毎の糧としての逸話365』(神戸キリスト教書店)
石川武美『信仰雑話』(主婦の友社)
吉田好一『ひとすじの道 主婦の友社創業者・石川武美の生涯』(主婦の友社)

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