2018年御翼10月号その3

                       

日本で初めて演奏された「第九」――徳島・板東俘虜(ばんどうふりょ)収容所

 徳島県鳴門市で、今年六月、ベートーヴェン交響曲第九番の演奏会が行われた。鳴門は百年前、アジアで初めて第九が演奏された地なのだ。演奏したのは、鳴門にいたドイツ兵捕虜たちである。戦時中であるにも関わらず、捕虜たちは公正で人道的に扱われ、可能な限り自由を与えられ、鳴門の人たちと交流を深めていた。
 今からおよそ百年前、第一次世界大戦(1914-1918)のさなか、鳴門に板東俘虜収容所が造られた(捕虜のことを、第二次大戦以前、日本では公式に俘虜(ふりょ)と呼んだ)。敵対していたドイツ兵約千人が二年半(1917-1920)に渡って捕えられていた。しかし、そこでの生活は収容所という言葉からはかけ離れたものだった。収容所内にはボーリング場が設けられ、酪農場を含む農園を有し、志願兵となる前は家具職人や時計職人、楽器職人などだった捕虜たちは、自らの技術を生かし製作したものを、近隣住民に販売するなど経済活動も行い、ヨーロッパの優れた手工業や芸術活動を披露し、建築・設計まで広い分野で交流が行われた。収容所では、45名の捕虜たちが楽団を結成し、解放されるまでの約三年間に百回以上の音楽会を開いた。その一つが、アジア初となる第九の演奏であった(1918(大正7)年6月1日)。
 この収容所の管理をしていたのが松江(まつえ)豊寿(とよひさ)所長(陸軍大佐)であった。松江は捕虜に対し、ある信念を持って接していた。それは、「俘虜は犯罪者ではない。彼らも祖国のために立派に戦ったのだから、武士の情けを持って遇したい」というものだった。松江の信念に大きな影響を与えたのが、彼の父親だったと言われている。父親は、幕末に新政府と戦った会津藩士だった。戦争に敗れた松江の父親は、故郷を追われ、慣れない青森県での生活を余儀なくされた。その姿を見てきた松江は、敗者に対する優しさと敬意を常に持ち続けていたのだ。そして、会津藩の初代藩主・保科(ほしな)正之(まさゆき)(徳川家光の弟)がキリシタンであり、藩ぐるみでキリシタンを保護した歴史がある。松江にも聖書の教えが伝えられていたはずである。第一次大戦終了に伴い、1920年四月、板東俘虜収容所は閉鎖された。解放された俘虜たちは、ここで受けた温かい扱いを忘れず「世界のどこに松江のような(素晴らしい)俘虜収容所長がいただろうか」と語るほどだった。
 今年、「第九」百周年の演奏会に合わせ、鳴門である式典が行われた。松江の銅像の除幕式である。ドイツからこの式典に参加した人がいる。捕虜の子孫、マリオン・ズーア・モイリッヒさんである。マリオンさんは、捕虜だった祖父の話を聞いて育った。「松江豊寿さんという人がいたから、おじいちゃんは生き残って『本当にすばらしい人だったんだよ』と、ずっと子どもの時から教育されてきて…松江さんがいなかったら、たぶん私は存在していないし、彼は私にとっては英雄です」とマリオンさんは言う。マリオンさんの家では、松江のことを決して忘れないよう、代々語り継がれて来たのだ。この日、マリオンさんは思いがけなく、松江の孫の行彦さんと出会った。「おじい様は本当にご立派な方でした」と流ちょうな日本語で語るマリオンさんに、「みんなと一緒に生活できたから、おじいさんはすごく嬉しがっていた。すごく日本語が上手ですね」と言う。マリオンさんは、「松江さんのおかげで、日本語を勉強しようと決心したんです」と答えた。
 時代を越え、今なお松江は日本とドイツの人々を結びつけている。第九の歌詞には、松江を描いたかのような歌詞がある。「時代が離れ離れにしたものを、あなたの不思議な力は再びつなぎあわせる。あなたの優しい翼のとどまるところ、すべての人々は兄弟になる」と。

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