2018年御翼12月号その1

                           

会津藩の善政―保科正之(ほしなまさゆき)

  神学校の通信課程のAさんが、会津藩の掟が書かれたお土産が、藩校日新館で売られていると教えてくださった。日新館から取り寄せた手拭には、「会津藩幼年者のための『什の掟』」が記されている。
 会津藩幼年者(6歳から9歳の幼年者が対象)
什(じゅう)の掟(おきて)(什とは、会津藩における藩士の子弟を教育する組織)
一、年長者の言うことに背いてはなりませぬ
一、年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
一、虚言(うそ)をいふ事はなりませぬ
一、卑怯な振舞をしてはなりませぬ
一、弱い者をいじめてはなりませぬ
一、戸外で物を食べてはなりませぬ
一、戸外で婦人(おんな)と言葉を交えてはなりませぬ
 (現代に活かすとするならば、「目標を達成するまでは女性に目を向けないと心に決める。女性から離れて将来に向けた生活に踏み出す」ということになる。)
  ならぬことはならぬものです

 これらは、モーセの十戒(出エジプト記20章)が基盤となっていることは明白である。
「(12)あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。(13)殺してはならない。(14)姦淫してはならない。(15)盗んではならない。(16)隣人に関して偽証してはならない。…」
「ならぬことは、ならぬものです」といっても、違反があったときにはそれについての申し開きを聞き、制裁についても相談して決定するという合議制を取り入れている。
会津藩の教育施設は、藩祖・保科正之が一六六四年に学問所・稽古堂を設置したのが始まりである。「保科正之はキリシタンだった」との証言を、小堀千明先生は、三十年間会津で開拓伝道した結果、村の人たちから聞く。
 保科正之は、江戸幕府第三代将軍徳川家光の異母弟で、四代将軍徳川家綱の補佐役として活躍した。一方、会津藩主としても力を注いでいた。正之が入ったころの会津は、難問だらけだった。例えば、
当時農民たちは、凶作のとき、貧しさゆえに生まれた子を育てられず、殺していた。正之は、この「子どもの間引き」を禁止し、飢饉に備えて藩が米を備蓄し、農民たちに貸し出す制度(社倉制度)を設けた。また、会津は、東北や越後の人たちが、日光東照宮の参詣や参勤交代で江戸に向かうときに、必ず通る場所で、旅人が行き交う交通の要所だった。会津藩は多くの旅人でにぎわったが、正之は会津を行き来する旅人を斬新な方法で援助する。その政策とは、「病んだ旅人は宿の主が医者にみせる。それができないときは町奉行へ申し出よ」であった。正之は、会津藩と縁もゆかりもない者であっても、会津を旅していて病気になったら、宿主が医者か奉行に知らせなければならないと定めたのだ。更に、「旅人が支払えない場合、必要経費は会津藩が負担する」というのだ。「旅人を放っておいて病死させたら名主から近所住まいの者まで責任を問う」とあった。旅人に支払い能力がなければ、代わりに会津藩が支払う、という規定だった。旅人に対する救急医療制度である。これはイエス様の「よきサマリヤ人のたとえ」そのものである。

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