2018年御翼6月号その2

                           

家康の旗本となった英国人ウィリアム・アダムス(三浦按針(あんじん))

 関ヶ原の戦いの半年前の一六〇〇年、オランダ船に乗って一人の英国人が徳川家康の前に現れた。ウィリアム・アダムス(日本名・三浦按(あん)針(じん))というプロテスタント信者で、日本と貿易するためにやってきた。当時、既にスペインとポルトガル(共にカトリック国)が日本に進出、そこへ新興国である英国とオランダ(共にプロテスタント国)が入り込んできたのだ。
 オランダ船は、スペインからの攻撃を逃れるため、太平洋周りで日本にたどり着く。その話に家康は多大な興味を示すが、通訳を務めたポルトガル人宣教師にとっては敵となる。宣教師は、アダムスのことを「悪い海賊だから、即刻、死罪にしてください」と家康に進言する。しかし、家康は宣教師の訴えを退き、アダムスたちを保護することにした。これが後に、日本がスペインの植民地となることを防ぐことになる。
 スペインは、貿易とセットで布教を行う。そして、「日本は金銀が豊富で、植民地とするには最適です。しかし、日本人はとても戦争が得意なので、武力制圧は難しいでしょう。そこで宣教師を送り、信者がたくさん増えれば、喜んでスペイン国王に従うようになるはずです」(「ドン・ロドリゴ日本見聞録」より)と記録されている。それは、日本人の魂までも取り込んで、日本を植民地化しようとしていた。それを見抜いたアダムスは、家康に警告すると、家康はカトリック教会を破壊し、布教を禁止した。
 一方、プロテスタントの英国・オランダは、貿易が目的であり、布教はしない。家康はアダムスの仲介で、オランダとだけ貿易をする、鎖国とオランダ貿易に代表される江戸の外交が確立した。その基盤は、家康とアダムスが作ったのであり、日本の植民地化が避けられたのだ。

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