2017年御翼9月号その2

                    

日本薬学会の初代会頭―長井長義

 江戸時代の終盤、一八四五年、長井長義(幼名・朝吉)は、現在の徳島市で、代々阿波藩に仕える 医者の家系に生まれる。21歳のとき、長井は藩から長崎留学を命ぜられ、医学修行に行く。長崎には幕府が設立した西洋式医学校(「精得館」)があったからである。そこでは薬剤学の基礎となる理化学を学び、長井は化学に興味を持つ。また、長崎では大浦天主堂も訪れているので、そこでカトリック信仰に触れたのかもしれない。長井は一九二九(昭和4)年、85歳でローマ法王庁より聖セブルクロ勲一等大十字章を贈られているので、カトリック信者であったことは間違いない。
長崎での医学修行を終えると、阿波藩と父は、優秀な長井になおも医者になることを期待し、24歳で東京大学の前身である大学東校に送られ、医学を学ぶことになってしまう。
 「自分はこのまま医者になるしか道はないのか」、と思いながらも長井は、「こうなったら目の前の道で得られることを着実に利用していくしかない」と決意する。夢をかなえるには手順を踏め、ということである。長井は親の期待に応え、大学で医学に打ち込んだ。そして、遂にチャンスが訪れる。大学東校が成績優秀な長井を、ドイツに留学させると決定する。一八七二(明治5)年、27歳でベルリン大学に入学した長井は、世界的な化学者ヴィルヘルム・ホフマンの弟子となった。「日本にいる限りは、父親の願いにどう応えて、どう自分の思いを遂げるかという葛藤がある。しかし、地球の裏側まで出かけて新世界に飛び込み、束縛から解放されたことが、長井は突き動かしたのであろう」と徳島大学名誉教授・渋谷雅之氏は言う。
 長井がベルリンで一流の化学者へと成長する間、明治時代となった日本では、それまで薬と言えば植物をすり潰しただけの漢方薬であったのが、化学の技術で人工的に作る医薬品が輸入されるようになっていた。その輸入される医薬品には品質の悪いものもあったが、当時の日本には、その質を分析する技術も、安全な医薬品を作る技術もない。そこで明治政府は長井に帰国を要請し、13年ぶりで帰国した長井は、東京大学薬学科をつくり、大学や内務省、製薬会社の仕事を掛け持ちする。帰国から一年後、ぜんそくの特効薬として世界中で使われているエフェドリンを発見する。長井は42歳で日本薬学会初代会頭に就任、医薬分業のために尽力する。
 一八八六(明治十九)年、長井は41歳で17歳年下のドイツ人女性テレーゼ・シューマッハ(カトリック信者)と結婚する。旅先のホテルで出会った二人であるが、娘が日本に行くことを反対した両親に、テレーゼはこう言った。「私は日本という国を知りません。しかしあの人の眼を信じます。あの人の眼には誠実が輝いている。あの人の眼を信じて、私は世界のどこへでも行きます」と。日本で暮らし始めた二人は、日本人女性ももっと社会に出るべきだと考える。長井はカトリックの修道会「幼きイエス会」を支援、一八九七(明治三十)年、語学塾・雙葉会(ふたばかい)の創設に参加、52歳で校長を務め、テレーゼはドイツ語を教えた。雙葉会はやがて雙葉学園(カトリック系)となり、全国に姉妹校が作られる。また、日本女子大学の創立に尽力し、長井は化学の教鞭をとり、専門知識を学ぶ機会の少なかった女子学生らに、男性と並ぶ教育に力を入れた。長井の下、化学に魅了された学生の記録がある。「実験上、誰が行っても反応は同一に現れる…人間が自然法則をゆがめ得ぬ厳然たる事実、これこそ私にとってのオアシスであった」と。化学の実験は、やり方が同じなら、女も男も同じ結果がでる。そうした、人間には絶対に曲げられない自然法則を自ら実感する喜び、明治の日本社会に縛られる若き女性に、新たな価値観が芽生えたのだった。
 自分の意志を通しにくい時代に、長井は信仰をもって耐え、神のご配慮により、自分を信頼してくれる妻と出会い、日本を変える働きをした。

 御翼一覧  HOME