2019年御翼1月号その3

                           

〝天皇の先生〟になった男 小泉信三

 小泉 信三(しんぞう)(1888年~1966年)は、日本聖公会のクリスチャン(64歳で受洗)で、経済学者、今上天皇(現在の天皇陛下)の皇太子時代の師父であった。戦前の一九三三~一九四六年まで慶應義塾長(慶応義塾大学の塾長)を務めた。長男・信吉は慶応義塾大学卒業後、銀行員から海軍軍人となり、太平洋戦争で戦死(24歳)する。戦局が悪化するなか、一九四三年に学徒出陣が始まり、小泉は沢山の教え子たちを戦地に送り出し、500人もの学生が戻らなかった。戦後、小泉は、当時12歳で学習院中等科に進学される皇太子さま(現在の天皇)の先生役を命じられる。 
 この時期、天皇制そのものが問われていた。GHQは天皇を中心とした国の在り方を変え、民主化を進めようとしていた。連合国の中には昭和天皇の処罰を求める声もあり、国内の学者からも天皇は退位すべきとの声があがった。そして、連合国の占領下にあった日本の新たな憲法で、天皇は日本国の象徴だと定められた。その頃、小泉は昭和天皇と皇太子さまに福沢諭吉の著書「帝室論」を使って講義している。そこには、皇室を「万年ノ春」と譬えていた。皇室は、国民が和やかな気持ちになるような存在であるべきだというのだ。つまり、軍国主義の象徴としてではなく平和の象徴に切り替えて行かなければ、天皇制は生き残れない。天皇に対して敬意を持つ、そのことによって人々の心をまとめ上げる、というのが福沢の「帝室論」の肝の部分である。
 自分の息子が戦争で亡くなり、学徒出陣で学生たちを多く送り出し、死なせてしまった。それに対する後悔、絶たれてしまった将来をどう未来に生かしていくのかという気持ちが、皇太子を育てたいという気持ち、感情につながっていたのであろう。「新憲法にとって、天皇は政事に関与しないことになっておりますが、しかも何らの発言をなさらずとも、君主の人格、その識見はおのずから国の政治によくも悪くも影響するのであり、殿下の御勉強と修養とは日本の国運を左右するものとご承知ありたし」と小泉信三は皇太子に語った。つまり、国民から尊敬を集められる人でなければ、国民統合などできない、ということである。皇太子さまは一時間以上、姿勢を正して聴かれ、こう述べられた。「私の責任がどれほど重いものか、改めて知ることができました。どうもありがとう」と。 
 小泉信三 ― クリスチャンであり、矯風会の後援会長として本部会館建設の募金集めなどに協力した。今村武雄『小泉信三伝』(文藝春秋)p.479

歴史秘話ヒストリア 「“天皇の先生”になった男 小泉信三 “象徴”とは何か」 NHK-G 2018.12.12放送

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