2019年御翼10月号その1

                           

「お父さんやお母さんを責めんでね」―― 古巣 馨 神父

  カトリック長崎大司教区の司祭・古巣 馨 神父は、浦上教会の教会学校で、小学校一年生を受け持っていた頃のことを語る。ある日、子どもたちの間でお金がなくなった。すると、ひとみという小さな女の子が疑われた。幼稚園にも保育所にも行かずに小学校に入って来た子で、あまりしゃべらないし、読み書きも満足にできない子だった。お母さんは病気がちで、お父さんは酒飲みで仕事も休みがちだった。だから、行き届かず、この子はパンツを履かずにやって来たり、冬の寒い時でも、肌着をつけず、セーターを二枚も三枚も重ね着して来たりしていた。
 古巣神父は、ひとみちゃんの髪を切ってあげたり、買い置きのパンツを履かせたりしていた。顔は汚れていても、綺麗な澄んだ瞳をして、にっこりと笑って頭を下げる子だった。古巣神父は、この子が犯人にされたときに、「ひとみ、本当にとったと?」と直接尋ねると、ひとみちゃんはしっかりと神父を見て、首を横に振った。ああ、この子はお金をとっていない、と神父は確信した。やがて、お金がなくなったと言った子が帰宅すると、家に置き忘れていたことが分かった。翌日、ひとみちゃんを犯人だと言った子が、「ごめんね」と謝ると、ひとみちゃんは「うん」とうなずき、何もなかったかのように皆の中に溶け込んだ。
 ある朝、ひとみが動かない、と祖母から電話が入った。神父が駆けつけると、せんべい布団の中でひとみちゃんは丸くなって薄目を開けたまま動かない。母親はたまたまおらず、父は神父が来たことで恐れをなしたのか、押し入れに隠れていた。三日前から具合が悪かったと祖母から聞いた神父は、救急車を呼んだあと、父親を引きずり出し、ひとみちゃんを放置したことを叱責した。しかし、ひとみちゃんは天に召された。死因は急性肺炎で、周りに家族はいても、一人寂しく生を終えて行った。
 ひとみちゃんの死に顔は、すみれの花が咲いように綺麗だったという。神父はひとみちゃんを棺に納めるとき、「ひとみ、きつかったね」と顔を撫でていたら、はっきりと聞こえたという。「神父様、ごめんね。お父さんやお母さんを責めんでね。お願いだからゆるしてやってね」と。「親を恨み、自分の生まれつきを憎んだら、辛くて生きていけません。毎日そっと祈りながら、ゆるしを請う子どもだったのでしょう。『ゆるし』という神の思いを、この小さな子どもがけなげに生きて、死んでいくのを目の当たりにしました。『ゆるしてやってね』ひとみから差し出した、これが命の水です。人間の関係が切れて行くのは、ゆるしがないからです。ゆるしがあれば、またもとに戻ることができます。本当にゆるしがあれば、また絆を結びつけることができます。キリストが十字架にかけられたとき『父よ、この人たちをゆるしてください。何をしているのか分かっていないんです』と言われました。十字架上の言葉は、ゆるしの言葉だったのです。そして、ゆるされた人は救われた人です。ゆるしがないところには憎しみが生まれます。救いの一番の泉は、そこにゆるしがあるということです。ひとみちゃんは、キリストが一番伝えようとしていたものを、見せてくれたんです」と、古巣神父は言う。
こころの時代「長崎の祈り」カトリック長崎大司教区の司祭・古巣 馨 Eテレ 2019.9.8より


 御翼一覧  HOME