2019年御翼10月号その4

                           

聖書教育を推進させた福沢諭吉

聖書教育を推進させた福沢諭吉
 慶應義塾大学を創設した福沢諭吉は、明治維新の偉人の中で最もよく知られている一人で、現在一万円札にその肖像画が印刷されている。キリスト教排撃論者と言われていた福沢諭吉であったが、二人の息子たちの道徳教育にと、『ひびのをしへ』(日々の教え)という手作りの教習書を書いている。それは、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、といへり」という冒頭の言葉で有名な『学問のすゝめ』を書く一年前のことである。そして、そこには驚くべき内容があった。
「てんとうさまをおそれ、これをうやまい、そのこころにしたがふべし。ただしここにいふてんとうさまとは、にちりんのことにあらず、西洋のことばにてごっどゝいひ、にほんのことばにほんやくすれば、ざうぶつしゃといふものなり」。 
 (白井堯子著『福沢諭吉と宣教師たち』未来社)
 「ごっど」は英語でGODのことで、聖書に出てくる神をさす。そして、その神は天地万物を創造した造物主で人格があり、人はその神のみこころに従って生きるべき存在であることを子ども達にわかるように教えている。これが書かれたのは一八七一(明治四)年で、福沢は既に、慶應義塾を創立、明治を代表する教育者としての道を歩み始めていた。維新前後の国際情勢の中で、福沢が、列強キリスト教国の進出によって、日本が植民地化されるのではないかと恐れていたことは事実である。この危機意識と国を守らねばという強い信念が、福沢をキリスト教排撃へと向かわせたのであり、必ずしも、キリスト教の土台とも言える聖書の真理そのものを否定したわけではなかったのだ。
 福沢は、宣教師たちを慶應義塾の英語講師として迎え、彼らが授業の時間外に聖書を教えることを容認していた。一八八四(明治十七)年六月、福沢は自らが発刊していた新聞「時事新報」の社説に、キリスト教を一時的とはいえ排撃したことは誤りであったと自己批判し、日本の国も独立の地位を保つためには、キリスト教という欧米文明国と同じ色の宗教を盛んにすることが必要だと述べている。 
 福沢自身はクリスチャンではないが、『ひびのをしへ』を学んだ長男一太郎は、アメリカのキリスト教主義学校のオペリン大学に留学、そこで洗礼を受けている。また、三女の俊、四女の滝もクリスチャンとなり、特に(志(し)立(だち))滝は、東京女子青年キリスト者会(YWCA)の会長を20年にわたり務めた。その孫の代になると、さらに多くのクリスチャンが福沢家から出ている。また、諭吉の二人の姉もキリスト信者であったという。信者でない福沢の聖書教育は、本人の知らぬところで実を結んでいたと言える。
 福沢は、宣教師ショーを自宅に住まわせ、息子・娘たちの家庭教師とし、また慶應義塾大学で倫理を、実際には聖書を教えさせていた。また、ショーが在日英国公使館付き牧師という重要な公職にあったことから、ショーは日本との不平等条約を改正するようにと、自国の外務大臣に手紙を書いている。福沢はショーと共に、日本の近代化・文明化のための連係プレーをしていたのだ。
聖書の「ごっど」を畏れ、差別を憎み、武士にも町人にも平等に教育の機会を与え、不平等条約改正のために戦った福沢こそ、イエス様に従い、良い実を結んだ「使徒」なのである。


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