2019年御翼2月号その1

                           

『日本宣教論』―― 後藤牧人牧師

 太平洋戦争は多くの悲しみをもたらした。その悲しみから救われるためには、(1)武力に訴えたことは間違っていたと認める、(2)古いキリスト教信仰(「白人文化は優れており、アジアなどの有色人種の文化は低劣である」)に戦争の原因があったことを明らかにする、(3)日本式の伝道の方策を、世界が求めていると知ること、である。以下は後藤牧人『日本宣教論』(イーグレープ)からの要約である。

 日本の宣教を考えるにあたって、戦争責任、天皇制、神道の三つを避けて通ることはできない。この三つについては定説がある。それによれば、これらの三つは日本の体質そのものであり、この日本的な体質こそが日本宣教の障碍(しょうがい)を形成している、と言うものである。そこから、キリスト者はすべからく神道と天皇制に反対し、戦争責任も加えて日本社会に覚醒と悔い改めを促さねばならず、それがあってこそ初めて日本の祝福が始まる、とされている。
果たしてこのような定説は正しいのだろうか。じつは戦争責任、天皇制、神道の三つを論じることは、日本を論じるにとどまらないのである。それらはさらに進んで「伝統的なキリスト教」そのものを論じる。すなわち日本の近代の歴史を知ることは日本を知ることにとどまらず、同時に近代における欧米キリスト教国のアジアにおける行動パターンを観察することに繋がる。それをすることによって、我々は近代の西欧キリスト教が内包する大きな欠陥、つまりキリスト教倫理の問題に直面する。古いキリスト教信仰は、「白人文化は優れており、アジアなどの有色人種の文化は低劣である」という観念をあわせ持っていた。
そもそも太平洋戦争の原因の中にキリスト教にも責任があるのではないか、そういう可能性についてはだれも論じないし、論じてはならないとされているのである。もしかしたら、キリスト教思想こそが太平洋戦争の真犯人なのかも知れないなどとはだれも恐れ多くて考えないのである。
キリスト教伝道には二つの任務があった。一つは福音を述べることであり、もう一つは低劣なアジア・アフリカの文化を駆逐し、「キリスト教文化」を教える、と言うことであった。これら二つともがキリスト教伝道の純正な部分である、とされていた。それにかわり「白人の文化も有色人種の文化も神の前に貴重で同等である」という概念に基づいて福音的信仰が成長して行かねばならないのである。太平洋戦争はまさにその転換のキッカケのはずであった。じつは筆者のひそかな思いは、日本発の伝道論と方策こそは世界が期待しているものだ、ということである。笑われるかも知れないが、世界のキリスト教会はまさに日本発の伝道論とその方策によってさらに祝福されると信じるものである。

[真珠湾攻撃(戦争責任)について]
当時アメリカは宣戦布告なしにドイツの海軍を攻撃しており、日本はドイツと軍事同盟を結んでいたので、自動的に交戦状態にあったことになる。[文芸春秋『真珠湾の真実』(二〇〇一年)] このとき日本は、千年以上に及ぶ「世界は白人のもの、有色人種はその奴隷、それは神の定めた秩序」という理念を否定しようとしていたのである。英米によって代表されるヨーロッパの思想よりすれば、日本はこのように「神による聖なる秩序」の破壊者だったのである。太平洋戦争に宣教学的な意義があるとすれば、それはこの秩序が破壊されたことである。それはまた、二十世紀前半まで世界を支配したキリスト教という「宗教」の破壊でもある。(これは、あくまでキリスト教という「宗教」について言っているのであって、聖書の福音自体のことを言っているのではない。)それは福音の破壊ではない。むしろ「伝統的キリスト教」が、「部分的にではあるが隠してきた福音」の再発見であり顕揚である。このように白人は高貴でアジア人は劣等であろうと何百年にも渡って教えこまれてきたのであるが、太平洋戦争はこれに終止符を打った。


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