2019年御翼3月号その1

                           

わたしの隠れ家 ―― コーリー・テン・ブーム

  第二次大戦中、ナチス・ドイツはオランダも征服、ヒトラーは、オランダでも反ユダヤ人政策をとる。クリスチャンのテン・ブーム一家は、ユダヤ人を家にかくまうが、密告により家族全員が刑務所(強制収容所)へ連行される。当時53歳のコーリーは、姉のベッツィーと共に、ドイツのラベンズブルック刑務所に送りこまれる。そこは、死ぬまで働かせる目的で作られた強制労働収容所で、過密な人口を減らすため、毎日七百人もの女性が死ぬか、殺された(終戦までに9万6千人が死亡)。いつ殺されるか、拷問にあうか、知る術もないコーリーは、祈りの中で御声を聴く。「コーリー、彼らの残酷な所業のことを考えるな。わたしがお前の隠れ家だ。私に隠れればいい」と。コーリーは、「主が隠れ家」とはどんな意味なのか、収容所の中で少しずつ体験し、主を信じることを学んでいく。
 収容所では、時々裸で立たされることがあった。惨めで寒く耐え難い。その時、突然コーリーは、十字架上のイエス様を見た思いがした。ローマ兵がイエスの着物を剥ぎ取り、十字架に架けたとある。自分自身の体験によって、イエスの苦しみのひとかけらでも理解することができた。「キリストが感じられたように感じることができたことを、心から感謝した」とコーリーは言う。
コーリーたちが最後に収容された第28号棟バラックは、ノミがいっぱいいた。そんな環境でも姉ベッツィーは、聖書には、「どんなことにも感謝しなさい」(Iテサロニケ5・8)とあるから感謝することを探そうと言う。「私たち姉妹がここでいっしょになれたこと」「ここに来るとき、検閲がなくて、聖書を持っていられたこと」更に、「ノミのために、感謝します」とベッツィーは言う。コーリーは、ノミに感謝することだけは間違っていると思った。
 ところで、コーリーとベッツィーの二人は、看守の目を盗んで、聖書を読む集会を開いていた。神の御言葉を伝えるのは禁じられており、看守に見つかれば惨殺される。しかし、一日二回、バラックでの聖書読書会は続けられた。初めのうちは見つからないかとおびえていたが、看守は決して近くに寄って来ないことが分かると、第28号棟での集会は、これまでになく大人数になった。皆で讃美歌を歌い、ベッツィーかコーリーがオランダ語の聖書を読み上げる。すると、命を与えることばが、ドイツ語、フランス語、ポーランド語、ロシア語、チェコスロバキア語、それから再びオランダ語となって、通路を伝わっていく。これは、さながら天国の予告篇だった。死の床のそばにすわると、そこは天国への門となった。何もかも失った収容所内の婦人達が、希望に輝き、精神的・霊的に豊かになっていった。そんな頃のある日、姉ベッツィーが、嬉しそうにしていた。コーリーが、「何だかご機嫌ね」と言うと、「第28号棟バラックには、どうして看守が来ないか、どうしてあんなに自由があるのか、今まで分からなかったでしょう。その理由が分かったのよ。作業監督も、看守も、ドアを越えて入ろうとしないのよ。どうしてか、わかる?」とベッツィーは言い、勝ち誇ったように、「ノミのせいよ!『あそこは、ノミが這い回っているからな』って、作業監督が言ってたわ」と言った。ノミとシラミのおかげで、看守は部屋に入ってこなかったのだ。この体験は、イエス様がその御霊を通し、地上に私たちと共におられるという事実を物語っている。
 コーリーとベッツィーは、収容所内の人たちや、ドイツ、ヨーロッパ、全世界の人たちの癒しのために祈っていた。祈りの中で神は、戦争が終わったら、大きな家を所有して、強制収容所で心と体に傷を受けた人たちが、精神的に社会復帰できるまで、生活する施設を作るよう示された。ところが、姉ベッツィーは、衰弱して終戦を待たずに、収容所内で亡くなる。ベッツィーは死ぬ前、「自分とコーリーが解放され、自由になった夢を見た」と言い、それは現実になるのだというのだ。更にベッツィーは、この収容所は、もはや刑務所ではなく、ナチス・ドイツのために精神的に傷ついた人たちが、その傷を癒すホームだと言い出した。「コンクリートの壁はなく、有刺鉄線もない。各バラックの窓辺には、植木箱さえある。そして、グレーのバラックは、緑に塗り替えましょう。春の若草のような、明るい緑にね」そう言い遺し、ベッツィーは平安のうちに天に召された。ベッツィーは収容所内で衰弱死したのであるが、それは永遠の家への『釈放』であった。
 一方、コーリーはベッツィーの夢のとおり、釈放される。収容所から生還したコーリーは、終戦後、あることに気付く。それは、戦争が終わっても敵を赦せないでいる人の精神状態は、いつまでも正常に戻らないということである。そこで彼女は、人々の心の傷をいやす施設を祖国オランダで開いた。戦争の後遺症(心の傷)を癒す活動を続けていると、ある日、救済団体の人がコーリーを訪ねてきて、コーリーのリハビリ活動を、ドイツでもして欲しいと依頼してきた。「もうそのための場所を見つけているんです。それは、政府から払い下げになったばかりの、元強制収容所です」と担当者は言う。そこは、まさにコーリーとベッツィーが戦時中、収容されていたドイツの強制収容所であった。コーリーが再びそこを訪れると、収容所は、さびた有刺鉄線で囲まれていた。コーリーは、かつてベッツィーが言ったことを思い出しながら担当者に言った。「植木箱を…どの窓にも置きましょう。有刺鉄線は取り除かねばなりません。それから、ペンキを塗り替える必要があります。緑のペンキです。明るい、黄緑です。春になって、新しいいのちが芽生える時の色です…」と。自分たちの収容所が、人を助ける施設になるというベッツィーの夢は、現実となった。
 コーリーは各地で講演し、神様がどのようにして自分たちに耐える力、祝福を与えられたかを語り、更に人を赦すことの大切さを伝えた。ところが、彼女がドイツのミュンヘンの教会で講演した後、見覚えのある男性が近づいてきた。彼はコーリーたちが捕らえられていた収容所のシャワー室の入り口に立っていた、元ナチス党員であった。コーリーの目には、シャワー室に群がり嘲笑する男たちの姿、苦痛に苦しみ、死んでいった姉の顔などが浮かんできた。しかし、近づいてくる男性の顔は輝いていた。彼は深々と頭を垂れて言った。「あなたのお話が聞けて、とても感謝しています。あなたが言われたように、イエス様が私の罪を洗い流してくださったことを思うと、嬉しくてたまりません」と。彼はコーリーが自分のことを覚えているとは知らずに、握手を求めて、勢いよく手を差し延ばした。ところがコーリーの方は、怒り狂って、復讐したいという気持ちが湧き上がっていた。あれほど赦してあげるようにと人々に語ってきた彼女の手は、どうしても前に出ない。コーリーは、それが罪であることを知った。「キリストは、この人のためにも死んでくださったのだ。私はそれ以上のことを求めているのだろうか」と思い、祈った。「主イエス様、私を赦し、私がこの人を赦してあげられるように助けてください」と。コーリーは無理に笑おうとして、手を差し延べようと、懸命になった。それでも握手ができない。愛のかけらさえ、心の中に感じることができなかった。そこで、再び、声を出さない祈りをしてみた。「イエス様、私はこの人を赦すことができません。どうか、あなたの赦しを、私に与えてください」と。そして、思い切って彼の手を取った時、信じられないことが起こった。コーリーの肩から腕、それから手先にかけて、電流が走り、彼に伝わって行くように思えた。彼女の心の中には、この男性への愛があふれ、思わず圧倒されそうになった。主が私たちに、敵を愛せよと言われる時、その命令に添えて、愛そのものをも与えてくださることを、コーリーは体験した。
 この実話は、一九七五年に米国で映画になった。最後のシーンは、コーリーが釈放される場面である。ある点呼の時、コーリーと他の女囚たちの番号が呼ばれ、列の外に立たされる。彼女は死
を覚悟しながらも、他の女囚たちに、「神は皆さんと共におられます」と励ましの声を掛ける。そして彼女は、幼い頃の父親との会話を思い出す。「もしお父さんが死んだら、私はどうしたらいいかわからないわ。苦難に立ち向かったり、危機を耐え忍んだりするほどの信仰は、私にはないと思うわ」とコーリーが言うと、父親は、彼女を見つめて優しく言った。「コーリー、アムステルダム行きの列車に乗るとき、お父さんはお前が乗車する直前に、切符を渡すんだよ。神様も同じように、死を迎えるときに必要な力は、そのときに与えてくださる」と。その父も、既に収容所で衰弱死している。このとき呼び出されたコーリーらは処刑されず、釈放された。後に分かったことだが、収容所に残された同年代の婦人たちは、十日後に銃殺された。そして、コーリーが釈放されたのは、ナチス側の全くの事務的な間違いであったという。
 「私は憎悪と無慈悲、残虐の中でも、最後には神の愛が残ることを体験してきました。私自身何度も死を目前にしました。そのたびに主は私の隠れ家であり続けました」そう語るコーリーは、一九八三年四月十五日、91歳の誕生日に天に召されるまで、「どんな深い穴の中にもイエス様がおられる」と世界中に伝え続けた。


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