2019年御翼4月号その2

                           

日本国民を守られた昭和天皇/天皇を守ったアメリカ人

 終戦直後、昭和天皇は決死の覚悟で日本国民を守ろうとされた。マッカーサー元帥は、日本の敗戦後、「天皇を第一位戦犯」と考えて最高司令官として進駐してきた。一九四五年九月二十七日、陛下が通訳を一人連れて、アメリカ大使館公邸にいるマッカーサーの前へ訪れた。このときマッカーサーは、天皇は命乞いに来たものと勘違いして、パイプを口にくわえて、ソファーから立とうともしない。陛下は直立不動のままで、こう言われた。「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われました限り、日本はただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります。しかしながら、罪なき8千万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」と。皆が、やれ軍閥が悪い、やれ財界が悪いと言う中で、天皇陛下は一切の責任はこの私にあります、いかなる極刑に処せられても、と淡々と申された。多くの人が責任逃れに奔走する中、このような態度を見せられたのは、われらが天皇ただ一人であられた。マッカーサーは陛下を抱くようにしてソファーに座らせ、今度は自分が直立不動で陛下の前に立ち、このように言った。「天皇とはこのようなものでありましたか!私も、日本人に生まれたかったです。陛下、私にできますることがあれば、何なりとお申し付けください」と。
 マッカーサーはのちに回顧録の中で、次のように書いている。「大きな感動が私をゆさぶった。死を伴う責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動を覚えた。私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」(マッカーサー回顧録一九六三年)

 近江兄弟社の創立者で建築家のウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏は、天皇陛下の素顔を知っていた。ヒットラーとは異なり、軍政権に利用されているだけである天皇は、戦犯の罪にはあたらないと確信していた。
 マッカーサー元帥と親しい関係にあったヴォーリズ氏は、近衞(このえ)文(ふみ)麿(まろ)(皇室に近い身分の政治家)の指示を受けて何とか天皇を戦争責任からはずそうと、マッカーサー元帥に取り次いだ。そして、天皇の人間宣言となった。そのときのヴォーリズの手記には以下のように記されている。
[ノンフィクション作家の上坂(かみさか)冬子(ふゆこ)が『中央公論』(一九八六年五月号)に投稿]
 九月十二日「明けがたの四時から五時にかけて、自分は帝国ホテルのベッドの中で、日本の信頼を回復するためにマッカーサー元帥が何よりも喜んで受け入れるであろう、天皇の単純明快な一言を含む詔勅(しょうちょく)または宣言の構想を考え続けた。(ポケット・ノートには、「九月十二日未明祈って与えられた言葉を綴った」とある。)近衛は『あの部分』を含めて、自分の報告に満足したように見えた。すべて神のお導きに支配されて動いているように思う」と。この日記を根拠に、ヴォーリズが立案した「天皇の単純明快な一言を含む宣言」が「人間宣言」であったと推理するのも決して不自然ではない、と上坂冬子は書いている。
そして、九月二十七日に、天皇はマッカーサー元帥を訪問し、上着なしのマッカーサーとモーニング姿の天皇の写真が報道された。
 浦谷(うらたに)道三(みちぞう)氏(ヴォーリズのお世話をよくした伝道師)は、「いまから思えば無茶な話ですが、ヴォーリズ氏はあれを書きながら、天皇をキリスト教に誘うチャンス至れりという喜びも秘めていたのではないか」と述べている。そして、占領下に天皇がキリスト教に関心を示した時期があったことは、レイ・ムーア(アメリカの歴史学者)などが述べている。
皇室は神道だから、キリストによって救われることはない、などと決めつけてはならない。どんな人に対しても、「愚か者」(神を知ることはない)などと言ってはならないのだ。むしろ、皇室の方々が、日本と世界の平和の象徴として、信仰を持って公務にあたられることを願うのが、世の光である私たちが祈るべきことである。

 歴史(れきし)の中枢(ちゅうすう) 一九〇四(明治三十七)年五月 内村鑑三全集12
我(わ)れ史(し)を繙(ひもと)いて国(くに)は興(お)きて又(また)亡(ほろ)び、民(たみ)は盛(さか)へて又(また)衰(おとろ)ふるを読(よ)む、
唯(ただ)見(み)る一物(いちぶつ)の時代(じだい)の敗壊(はいくわい)の中(うち)に在(あつ)て巍然(ぎぜん)として天(てん)に向(むか)つて聳(そび)ゆるあるを、是(こ)れキリストの恥辱(ちじょく)の十字架(じゅうじか)なり、世(よ)は移(うつ)り人(ひと)は変(かは)るとも、十字架(じゅうじか)は其(その)光輝(ひかり)を放(はな)つて止(や)まず、万物(ばんぶつ) 悉(ことごと)く零砕(れいさい)に帰(き)する時(とき)に是(こ)れのみは惟(ひと)り残(のこ)りて世(よ)を照(て)らさん、
十字架(じゅうじか)は歴史(れきし)の中枢(ちゅうすう)なり、人生(じんせい)の依(よつ)て立(た)つ盤石(ばんじゃく)なり、之(これ)に依(よ)るにあらざれば鞏固(きょうこ)あるなし、永生(えいせい)あるなし、余(よ)は皆(み)な悉(ことごと)く蜉蝣(ふゆう)あり、之(こ)れのみが窮(きわま)りなく存(たも)つ者(もの)なり。
(マタイ24・35 「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」)


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