2019年御翼4月号その4

                           

東條英機が実践した日本の理念と気概

 日本人によるユダヤ難民救出劇と言えば杉原千畝が有名だが、救出劇は他にも存在した。それは、杉原の「命のビザ」発給より二年半前の昭和十三年のことである。ナチスの迫害から逃れた多数のユダヤ難民が、ソ連と満州の国境にあるオトポールという街まで逃避してきた。その時、陸軍軍人・樋口季一郎の主導により、満州国はユダヤ難民に対して、特別に通過ビザを発給した。このビザを手にした多くのユダヤ人が、尊い命をつなぐことができた。樋口は、満鉄を始め、各方面と密接に連携しながら救出活動を遂行した。そんな大々的な救出劇は、関東軍の関与がなければ不可能である。そして当時、関東軍参謀長だった東條英機の承認がなければ、この計画はすぐに頓挫しているはずであった。
 日本の近代史において、東條英機ほど多くの誤解や偏見にさらされ続けている人物もいない。東條英機は都立戸山高校の前身・府立四中が、城北尋常中学校であった時代の卒業生で、我々の大先輩に当たることもあり、非常に気になる人物ではあった。東條に関しては、「日本を泥沼の戦争に駆り立てた張本人」といったイメージを持つ人も多い。しかし、その実相は大きく異なる。中国での利権を確保するため、中国大陸に満州国を建国していた日本を滅ぼそうと、米国は日本に戦争を仕掛けてきた。昭和天皇は和平を望んでおられたが、皇室への忠誠が人一倍強い、当時の陸軍大臣・東條英機ならば、天皇の意を汲んで戦争回避に尽くすだろうと判断された。また、東條ならば陸軍内の強行派の動きも抑制できるだろうとの期待もあり、首相に指名された。それでも開戦を避けられなかったのは、アメリカ側がどうしても日本と戦争をしたかったからであり、誰が首相であっても開戦は免れなかったであろう。
 敗戦を迎えると、新聞メディアは自らが開戦をさんざん煽った過去は棚に上げ、その責任のすべてを軍部へと押し付けた。国民の怒りと不満の矛先は軍部へと向かい、矢面(やおもて)に立たされたのが東條であった。東京裁判によって戦犯として絞首刑となった東條であるが、「敗戦によって国家と国民が蒙った犠牲を考えれば、自分は八つ裂きにされても足りない」と本人は受け止めていた。そんな東條が最も恐れていたのは、戦争責任が天皇にまで及ぶことであった。東條は天皇を護(まも)ろうとして、全ての汚名を被ったのである。処刑の数時間前、巣鴨プリズンの教誨師(きょうかいし)に対し、東條は「今こそ死に時」として、以下のような理由を列挙した。「国民に対する謝罪」「日本の再建の礎石となって平和の捨て石となり得る」「陛下に累(るい)を及ぼさず安心して死ねる」と。天皇への訴追を回避できたことが、彼にとって最大の慰めであった。
 GHQ(連合軍最高司令官総司令部)は、「犯罪者」としての印象を植え付けるため、わざわざ鉄格子の前で東條元首相の写真を撮影させている。そんなGHQの悪意も意に介せず、東條は笑顔で応じている。これは、「戦犯」という最大の侮辱を受けても、憤らず、果たすべき義務と責任に徹した東條英機の立派な態度であった。
「別冊正論33」東條英機が実践した日本の理念と気概  早坂 隆(ノンフィクション作家) 平成30年より


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