2019年御翼5月号その3

                           

「献金」について

 クリスチャンであれば、「施し」と聞くと、教会での献金を連想するであろう。しかし、献金は、施し(恵みとして与える)というよりも、神への返還金なのだ。全てはキリストによって贖われた恵みによって与えられているのだから、献金は衝動的にではなく、規則正しく行うものなのだ。
 申命記14・22-23に「あなたが種を蒔いて、畑から得るすべての収穫の十分の一を必ず毎年ささげなければならない。…あなたが、いつも、あなたの神、主を恐れることを学ぶために」と書かれている。神が求めておられるのは私たちのお金そのものではない、ということです。神は、十分の一献金を通して、私たちの心が神を第一にしているかどうかをご覧になりたいと考えておられるのだ。私たちに与えられているすべてのものは神のものであり、与えられた収入の十分の一を神に差し出すことによって、それが真実であることを表明するのである。
 私たちが十分の一献金をするとき、それは10%をささげるというよりも、収入の90%を使わせていただくのだということなのだ。すべてのものは神のものであり、神が私に90%を任せてくださっているのだと考えるのが聖書的な理解なのである。
 なぜ、私たちは十分の一献金をすべきなのか。聖書は以下の5つの理由を示している。
① すべてが神から与えられたものであることを教えてくれるから(申命記8・18)
② 神に対する感謝の思いを表すから(詩編116・12)
③ 十分の一献金をしないことは神から盗むことだ、と神が言っておられるから(マラキ3・8‐10)
④ 神が生きておられることと、神の具体的な祝福を体験することができるから(マラキ3・10‐11)
⑤ 神に対する愛を表すから(ヨハネ14・15)

 ウェイン・コデイロ牧師は、什一献金が、神からの真の富を受け取れるかどうかの試金石だという。什一献金とは、収入の十分の一を神に献げることである(それ以上ができれば、すべきである)が、既に与えられているもの、即ち、今の経済的な収入を正しく管理できなければ、その先にある、真の富を受け取れないというのだ。
 什一献金は、人を欲から解放し、与えることを学ぶ手段である。欲とは、得たものをすべて自分のために所有することである。献金を始めると、必要のないものに気付く。それを主に献げ、永遠につながるものに変えていただこう。申命記14・23に、「(献金の目的は)いつも神様を第一にして生きることを学ぶのです」(リビングバイブル)とある。
 什一献金をすることで、神があなたを、祝福を分け与える存在だと認めてくだされば、神は天にあるすべての祝福を注がれる。あなたを通して神が手を差し伸べたい人たちに祝福が分け与えられるからである。だから、使徒20・35に「受けるよりは与える方が幸いである」とある。神の祝福の水路となる事を人生のゴールとしよう。その時、天の富を管理することができるようになる。
 お金をうまく扱えないのに、どうして神は真の富をあなたに任せられるだろうか。天の富とは、信頼や影響力、霊的な指導力なのである。それらを正しく管理できる人であるかという神様のテストは、お金をどう使っているかなのだ。きちんと什一献金をすると、神は「それでは真の富を任せよう」と言われる。
「アイ・ライク・ギヴィング(与えるのが好き)」という運動を始めたブラッド・フォルムスマ氏は以下のように言う。「誰もが与えるものを持っている。与えることで、機嫌が悪くても気持ちは晴れる。落ち込んでいても、与えることでそこから脱出できる。与えることで、寿命も延び、薬の量も減る。こんなに素晴らしいことはない。与えることは、神の性質であって、私たち誰にでも備わっている性質なのだ。だから、どれだけ忙しくとも、あるいは恐れがあろうとも、与えよう。それは神の性質なのだから」と。
 そして、真の豊かさとは、金銭的な富ではなく、人を助ける力である。確かに金銭は人を助ける力にはなり得る。与える心と金銭が結びついたとき、それは貧しい者を助ける力になる。しかし、金銭がなくとも、愛に基づく発想や行為によって、人を助けることができる。人に見せびらかすためではなく、真心をもって施しをするとき、神だけが与えてくださる報酬、即ち、慈愛、平和、喜びを与えてくださる。これらは地上での生活を幸福にする。


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