2019年御翼6月号その2

                           

敵兵を救助せよ!― 駆逐艦「雷(いかずち)」工藤艦長

 第二次世界大戦中、日本海軍連合艦隊の司令長官・山本五十六(いそろく)は、圧倒的な国力の差から米軍との交戦を無謀と考え、ドイツとイタリアとの三国間で結ばれた「三国同盟」に強く反対した。山本は、キリスト教への理解が深く、聖書に親しんでいた。山本は少年時代を過ごした新潟で、私立長岡学校の英語教師をしていたアメリカン・ボードの宣教師ニューウェルの日曜学校に通っていた。また、兄の高野丈三は、長岡教会で教会生活を送った後、築地福音教会の牧師になっている。その後、高野が開拓した東金教会(千葉県東金市、日本基督教団)には、山本が訪ねてきたこともあったという。山本は、広島県江田島の海軍兵学校には聖書を携えて入学し、以後も英文の欽定訳新約聖書を携行していた。現在、この英文聖書は山本の遺品として、長岡市にある「山本五十六記念館」に収蔵されている。
 圧倒的な国力の差から米軍との交戦を無謀と考え、日独伊三国同盟に反対を唱えたのが海軍大臣・米内(よない)光政(みつまさ)、海軍次官・山本五十六(いそろく)、軍務局長・井上成美(しげよし)であった。井上成美は、青年時代洗礼を受けているクリスチャンであった。米国との開戦へとつながる三国同盟に反対していた三人のうち、二人は聖書を読んでいたことになる。皮肉にも山本五十六は、真珠湾攻撃を指揮することとなる。当時は、先進国すべてが武力に訴えるという「弱肉強食」の時代であり、たとえ、日本政府が戦争をしないと決めたとしても、米国は何をしてでも、日本との戦争を起こしたはずである。
 戦争は常に、経済活動を結びついて起こる。従って、平和を守るためには、憲法を改正するとかしないかではなく、パンの問題は、国家規模でも天の父なる神への信仰により解決すると信じる者が政治や外交を行う世の中にならなければならない。戦争が起こってしまったならば、神を信じる者たちは、早く終結するよう、最善を尽くさなければならない。

 一九四二(昭和十七)年三月二日、日本海軍駆逐艦「雷」がインドネシアのスラバヤ沖を哨戒行動中、重油が流れ出た海面に大勢の将兵が漂流しているのを発見した。 前日の日本帝国海軍との交戦で沈没した英国艦隊の将兵達で、ボートや瓦礫に寄りながら海上を漂っていたのである。 その数は四百名を超えていた。「雷」の工藤俊作艦長(海兵五十一期)は、敵潜水艦の音響の有無を再三に渡って確認させ、その上で、「敵兵を救助する」と号令した。この海域は、米潜水艦が常に日本の船を狙っており、実際、前日には日本の輸送船が撃沈されていた。また、ジュネーブ条約によって、捕虜や病院船を攻撃してはならないことになっていたが、現実には、日本の病院船「ぶえのすあいれす丸」は、米軍のB24爆撃機によって撃沈されている。「艦長はいったい何を考えているのだ! 戦争中だぞ!」と批判の声も出た。 だがこうした批判の声を沈静化させたのも工藤艦長のリーダーシップと人徳だった。普段から工藤艦長は艦内での鉄拳制裁を一切禁止し、兵・下士官・将校を分け隔てなく接し、人望を集めていた。そして、「敵とて人間。弱っている敵を助けずフェアな戦いは出来ない。それが武士道である」との工藤艦長の命令に、日本の将兵達は自らも海中に飛び込んで敵兵四二二名を救助したのだった。工藤は救助した英国将校たちにこう述べた。「You had fought bravely. Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy. I respect the English Navy, but your government is foolish to make war on Japan. 諸官は勇敢に戦われた。今や諸官は、日本海軍の名誉あるゲストである。私は英国海軍を尊敬している。ところが、今回、貴国政府が日本に戦争を仕掛けたことはおろかなことである」と。そしてディナーを振る舞い、翌日ボルネオ島の港で、オランダ病院船に捕虜として全員を引き渡している。英国海軍の規定には、危険海域における溺者救助活動では、「たとえ友軍であっても義務ではない」としている。 それが敵兵である自分達を、戦域での危険を顧みず救助し、衣食を与え、敵国の病院船に引渡しまでしたのだ。
 この事実は、当時救助された元英国海軍中尉サムエル・フォール卿が二〇〇三年に来日し、工藤艦長の遺族を訪れるまで、世に知られることはなかった。戦後フォール卿は、工藤を探し続けたが、工藤はクラス会にも一切顔を出さず、密かに暮らしていたため、居所が分からなかったのだ。駆逐艦「雷」は、工藤艦長が地上勤務となった後、撃沈され、かつての部下全員が戦死、工藤は部下に対して申し訳ないと思っていたのだった。フォール卿は近年、防衛庁を通して工藤の遺族と出会い、来日し、この救出劇の真実が明らかになった。 
 元海上自衛隊の幹部が書いた本『敵兵を救助せよ!』に、工藤艦長とキリスト教との接点があった。工藤艦長は幼少の頃、かつて山形県米沢(よねざわ)で起きた事件を祖父母から口癖のように語り聞かされていた。明治二十七年、上杉神社前夜祭の時、英国聖公会の女性宣教師ミス・イムマンが公園で伝道中、何者かに投石されて重傷を負い、片目を失明した。この三十二年前、生麦事件が発生しており、山形県知事は国際紛争になることを恐れて病院に日参し、犯人逮捕に乗り出した。ところがイムマンは「たとえ一眼を失っても千人を啓蒙できれば本望です」と言い、「捜査打ち切り」を願い出たのだ。このことに県民は感動し、犯人も良心の珂(か)責(しゃく)に堪えられず、自首する。その犯人は、興譲館中学四年生の関才(さ)右(い)衛門(えもん)であった。関は後に海軍兵学校に進み(海兵二十六期)、大佐まで昇進するが、終生イムマンに師事し、英国に渡って聖公会の洗礼を受けている。更に、工藤は上村将軍の話も祖父母から聞かされていた。上村将軍は、日露戦争中の明治37年、ロシアの巡洋艦「リューリック」を撃沈したあと、ロシア将兵627名を三隻の巡洋艦で救助した。これらの出来事は、工藤の生涯に大きな影響を与えている。
 海軍兵学校は、明治初頭に創立した頃から、キリスト教主義を取り入れている。明治政府の要請に応じ、明治六年に英国から派遣されたダグラス少佐は、英国海軍兵学校の士官教育システムに、キリスト教の教義を取り入れて精神教育を行ったのだ。その後も、明治時代の海軍兵学校には牧師が招かれ、キリスト教講演会も開かれていた。明治7年1月に入校した沢(さわ) 鑑之丞(かんのじょう)(海軍技術中将、除隊後は日本赤十字社理事)は、著書『海軍70年史談』の中で当時をこう回顧している。「生徒にもキリスト教の説教を聞かせる。予科生徒は日曜日もまるまる休ませないで、半日はどうしてもアーメンの講釈を聞かされる。これは、ずいぶん辛かった。居眠りをしていて、叱られたこともある」と。工藤が兵学校の生徒だったのは大正時代であり、その教育にはキリストの教えがあったはずある。
 戦後、工藤はこの救出劇を家族にも語らず、一九七九(昭和五十四)年他界する。しかし生前、イギリス兵に関して一度だけ語ったことがあるという。それは、工藤がいつも持っていたバッグがあまりにボロボロだったため、姪が「なぜ新しいバッグに替えないの?」と聞いたときであった。工藤は、「これは昔、イギリス兵からもらった大切なバッグなんだ」と語ったという。
 「敵を敬うという日本の武士道の考え方を、私は子どもや孫たちにも話しました。世界の人々が仲良くなるきっかけになればと思います」と、戦後外交官となったフォール卿は言い残している。
 敵を愛するとは、イエス様の教えであり、武士道にはキリストの教えが生きている。それを体現したこの救出劇は、戦争という枠の中ではあるが、神の国の実現であり、それは後の世代に大きな影響を与えることになるのだ。

惠 隆之介『敵兵を救助せよ!』(草思社)
惠 隆之介『海の武士道』(産経新聞出版)


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