2019年御翼6月号その3

                           

アンドリュー・カーネギー

 アメリカの実業家・アンドリュー・カーネギーは、米国で二番目の富豪となり、教育や文化の分野へ多くの寄付を行い、慈善活動家としてよく知られている。

    アンドリュー・カーネギーの名言
  1. 毎日、誰かの顔に喜びの微笑みが浮かぶような善行を心がけよう。
  2. 私たちは聖者と違って、自分の敵を愛するのは無理かもしれない。けれども、自分自身の健康と幸せのために、少なくとも敵を赦し、忘れてしまおう。これこそ賢明というものだ。
  3. 不当な非難は、しばしば偽装された賛辞であることを忘れてはならない。
  4. 年を取るにつれて、人が言うことには以前ほど注意を払わなくなった。人の行動をただじっと見ることにしている。
  5. 自分のしていることに興味を持つのはもちろん、そのことに喜びを抱いてこそ、初めて成功できる。人を批評したり、非難をしたり、小言を言ったりすることは、どんな馬鹿者でもできる。そして、馬鹿者に限ってそれをしたがるものだ。
  6. 自分の名誉を傷つけられるのは、自分だけだ。
  7. 自分に関心を持ってもらうために、二年間費やさなくても、他人に関心を持てば、二週間でより多くの友人を作ることができる。
  8. あなたが明日出会う人々の四分の三は、自分と同じ意見の者はいないかと、必死になって探している。この望みをかなえてやるのが、人々に好かれる秘訣である。
  9. この道は一度しか通らない道。だから人の役に立つこと、人のためになることは、今すぐやろう。先に延ばしたり、忘れたりしないように。この道は二度と通れないのだから。
  10. 笑顔は、一ドルの元手もいらないが、一千万ドルの価値を生み出す。

 スコットランドの手織り職人の元に生まれたカーネギーは、産業革命で父が失業したため、一八四八年に一家でアメリカに渡ると、カーネギーは十二歳で働きに出た。ピッツバーグ電信局の電報配達の少年として採用されたカーネギーは、通信技手になりたくて、朝早く電信局に行き、通信器械を触って電信を打つ練習をした。ある朝、フィラデルフィア電信局から死亡電報を送りたいという知らせが入った。カーネギーは送られてきた電報を受け取るとただちに配達した。まもなく出勤してきた通信技手は、カーネギーの越権行為をとがめるかわりに、その後、自分の仕事を任せるようになった。これがきっかけで、カーネギーは正式に電信技手に採用され、十六歳の少年としては破格の月収二五ドル、年収三〇〇ドルの社員になった。年収三〇〇ドルという金額は、当時は独立して家計を営むのに十分な金額だった。
カーネギーは自伝にこう記している。「心のやすらぐ貧しい家の暮らしは、やすらぎを失った富豪の邸宅の暮らしよりも、はるかに価値のあるものであり、偽りのない人生を生きることができるし、一生のうちに多大の事業を成すことができるものである」と。

 カーネギーが製鉄会社を経営するようになった頃の一八六八年、広いミシシッピー河に、鉄道用の鉄橋を建設する案があった。それは、かつてないほどの長い橋となる重大な計画である。そのころの鉄橋といえば、ほとんど鋳鉄製であり、衝撃には弱く、鉄道用の橋としては不向きだった。それに比べ、鋼鉄製の橋は、鋳鉄製の橋に比べて強度は十分にあったが、価格も何倍も高く、メーカーもユーザーも手を出せずにいた。
カーネギーの競争相手の会社は、鋳鉄で建設する案を出し、鉄道会社ではその会社と契約を結ぶことに決めていた。そこでカーネギーは鉄道会社の重役らにこうプレゼンテーションをした。「河を行き来する蒸気船が鋳鉄製の鉄橋の柱にぶつかったとする。すると柱はぽっきりと折れて、橋は落ちてしまうであろう。しかし、練鉄であったら曲がるだけで済む」と。すると重役の一人が、ちょうど三日前の夜、まっ暗な中で馬車を走らせていて、街燈の柱にぶつかった時の様子を語った。その柱は、鋳物であったために、こっぱみじんにこわれてしまったという。この話を聞いた重役たちは、カーネギーと契約することにした。粉々になってくれた街燈の柱が、カーネギーにとって記録的に有利な契約を結ぶ機会を生み出してくれたのであった。「もし私が、神のみ手が私を導いてくれたといったら、誰かに叱られるであろうか」とカーネギーは記している。


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