2019年御翼8月号その2

                           

近代日本経済の父 渋沢栄一

 以下は、埼玉県深谷市教育委員会作成のパンフレット「近代日本経済の父 渋沢栄一」からの抜粋である。

 渋沢栄一は、天保(てんぽう)十一年(一八四〇年)現在の深谷市血洗(ちあらい)島(じま)の農家に生まれました。父親からは律儀(りちぎ)さ、人への思いやりを、母親からは慈悲のこころを学びました。…また、いとこの尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)から論語をはじめとした学問を学ぶ…。明治元年(一八六八年)十一月に(ヨーロッパから)帰国した後、…大隈重信の説得により明治新政府の大蔵省に仕え、財政の整備に当たります。明治六年(一八七三年)大久保利通らと財政運営で意見が合わず辞職し、以後は実業界の最高指導者として活躍しました。「論語」の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、各種産業の育成と多くの近代企業の確立に努め、第一国立銀行をはじめ設立に関わった企業は500余に及びました。また、600以上の社会福祉事業に関わるとともに、昭和六年(一九三一年)に亡くなるまで、国際親善にも貢献しました。…栄一の生涯を通じての基本理念は「論語」の精神(忠恕(ちゅうじょ)のこころ=まごころと思いやり)にあり、単なる利益追求ではなく、「道徳経済合一」による日本経済の発展でした。ここに実業界の指導者としての栄一の偉大さがあるのです。
 渋沢栄一記念財団のホームページによると、渋沢が関わったキリスト教団体は、▽万国学生基督教青年会、▽救世軍、▽世界日曜学校大会後援会、▽ハワイ基督教青年会、▽日本日曜学校協会、▽東京基督教青年会館復興建築資金募集後援会、▽サンフランシスコ日本人基督教青年会、▽東京基督教女子青年会、▽日本基督教連盟と多数に及ぶ。 
 [『論語』とは、孔子(紀元前5世紀の人、春秋時代の中国の思想家、哲学者)と彼の高弟の言行を孔子の死後、弟子達が記録した書物。 孔子の思想は、地上の人間のあり方に対する教訓であって、目には見えない霊のこと、死後のことは分からないとしたままであった。また、イエスが「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7・12)と積極的に教えられたのに対し、孔子の教えは、「自分にしてほしくないことを人にしてはならない」と、イエスが後に語った言葉を消極的に言い表わしたものであると言える。]
 「道徳経済合一説」とは、自分の利益だけでなく周りの公益も考えよう、ということである。渋沢栄一は、クリスチャンではなかったものの、キリストの教えに通じる価値観をもって日本の資本主義の礎を築いた。渋沢栄一が支援したキリスト教団体の一つが救世軍である。救世軍では山室軍平士官(牧師)を中心に、人身売買から子女を救護する働き、貧困家庭への生業資金の扶助、酒を出さない簡易食堂の開設など、様々な救済事業をしていた。「事業を行うのに資金を集めてから着手するのではない。必要なものは必ず与えられるというのが、山室軍平の信念であり、人生観でもあった」と伝記には記されている(三吉 明『山室軍平』p.181)。
 一方、渋沢栄一の伝記小説『雄気堂々』(上、城山三郎著)には、クリスチャンではなかった渋沢が救世軍を支援する理由について、次のように語ったと描かれている。「実業家は金を作ることを知っているばかりか、どんな風に使うたらよいかということをわきまえている。それだから、自分らよりもあまり下手に金を使うと見ると、出したくなくなる。しかしあなたのところでは、比較的わずかな金で大きな事業をなし、金が活(い)きて働いているように見えるから、それでわたしは熱心に賛助しているのです」と。そんな渋沢栄一が、一九三一(昭和六)年に亡くなる直前、山室軍平は渋沢兼子夫人の依頼で、渋沢に対して三回聖書講義をしている。山室の日記によれば,渋沢は大いに喜んだとあるが、聖書の内容を儒教的に解釈しようとしていたという。山室は渋沢を「回心の確実なる体験に御導きし得なかったのは、全く私が至らぬ為であった」と記している。(谷田雄一「山室軍平の渋沢栄一に対する聖書講義」より)
口でキリストを告白させようとする気持ちが山室にあったとしたならば、それは西洋の流れのキリスト教の影響である。山室軍平が洗礼を受けたのは、築地教会であるが、この教会はアメリカのペンシルバニア州のドイツ系移民の間に立てられたメソジスト系の教会である。山室は築地教会の高野丈三牧師から指導を受けたが、高野牧師は、山本五十六元帥の実兄であり、真のキリスト者たるものは洗礼を受けねばならぬと牧師から教えられたという(三吉 明『山室軍平』p.32)。但し、これは洗礼を受けなければ人は救われない、という意味ではない。クリスチャンとは、「まるでキリストのようだ」、という意味であり、イエス様の教えに従って生きる者たちを形容した表現である。
 自分が救われるために洗礼を受けるのであれば、あまり魅力を感じない。周囲に、後世の人々にキリストへの信仰の大切さを示す意味があるのだから、洗礼は大切なのだ。
 第一ペトロ3:19には、キリストが既に死んだ者たちへの霊のところに行って宣教されたとある。従って、渋沢栄一は地上で洗礼は受けなかったものの、死後、キリストに出会うチャンスがある。私たちは、このような人たちを無理に回心させようとせず、キリストのような働きをしたことを素晴らしいと受け留め、魂の救いについては、神にお任せしよう。

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