2020年御翼11月号その1

         

「だから私は、神を信じる」―― 加藤一二三氏

 14歳でプロの将棋棋士となった加藤一二三氏(80歳)が、『だから私は、神を信じる』(日本キリスト教団出版局)を今月出版した。帯には、「キリスト教を信じることによって、私の人生や将棋は大きく変えられた」キリストを信じて50年。「信仰者・加藤一二三」が自らの体験から語る、聖書やキリスト教の神髄、とある。
 最初に、「この本を読むために」(用語解説)が以下のようにある。
「イエス・キリスト」は、名字と名前ではありません。「キリスト」は「救い主」を意味しており、「イエスは救い主である」という信仰を宣言する言葉です。十字架と復活によって、すべての人々を罪から解放して永遠の命へと導いてくださった方こそイエスさまです。
初めて聖書を読む方におすすめしたいのは、新約聖書にある「山上の垂訓」(「山上の説教」とも言われます)です。イエス・キリストが宣教(神さまの教えを広めること)を始めて最初に人々に話されたその言葉には、イエスさまの教えが凝縮されていると思うからです。(心の貧しい人々は、幸いである。…悲しむ人々は、幸いである。…柔和な人々は…。マタイ5章3~10節)

加藤一二三氏が神を信じる理由を著書から四つ挙げると…
1.苦しみの意味
人生を歩むなかで「苦しみ」に出会わない人はいません。進路、家族関係、仕事の人間関係……、さまざまな局面において私たちは困難を経験します。私も洗礼を受ける前、将棋にも行き詰まりつらい日々を過ごしていました。しかし今思えば、その苦しみがあったからこそ私は信仰へ導かれ、こうして今、生かされているということになります。そうした経験から、苦しみは「単なる苦しいこと」に留まらず、必ず何らかの意味をもっていると私は思うのです。
人生の歩みにおいて思いがけず出会う悲しみや苦難といった出来事の奥には神さまがおられるのです。
「イエスの教えた主の祈りの精神に従ってゆくと、いちばん幸せになるのです」(教皇フランシスコ)「主の祈り」とは、イエスさまが弟子たちに教えた大切な祈りです。そのなかでは「神さまのみこころが行われますように」「日毎の糧を与えてください」と祈ります。日毎の糧とは、衣食住、健康、仕事といった生きてゆくなかで不可欠なものです。たとえ不安や苦しみのなかにあっても、…神さまが必要なものを備えてくださると信じながら人生を歩むことが大切だとイエスさまはおっしゃっているのです。
2.祈り
私は「将棋に勝たせてください」と祈ったことはありません。ただ「良い将棋を指せますように」と祈ります。もちろんいくら祈ったからといって必ず良い将棋が指せるとは限りません。しかし、だからといって私の祈りや神さまの力に疑問が付されるのではなく、むしろそうした経験にも意味があることを覚えています。何よりも神さまの御心が実現しますようにと祈りつつ、同時に、私の願いをも神さまが良い形で用いてくださるよう、あきらめず繰り返し繰り返し祈り求めていきたいと思います。
3.神に委ねるという勇気
神さまの御旨(ご計画、思い)というのは、私たちには計り知れないものです。私たちには、自分が予期しないような出来事が多く起こります。そのときには悲しく困難なことにしか思えなくても、少し時がたってから振り返ってみれば「あの出来事にはこうした意味があったのだ」とわかることもあります。神さまの計らいは人の思いや理解を超えているのでなかなかわかりません。しかしそれでも、神さまがご自分がお造りになった人間を大変気遣い、善き業を行ってくださっていることを信じ、日々起こる出来事を通して神さまが自分に何を伝え、教えていらっしゃるのかを考えてゆくことが大切であると感じます。
聖書には、神さまがいつも私たちを思っていてくださることや神に委ねることの大切さが繰り返し語られています。その計らいに気づくことで、自分をはるかに超えた存在が自分を見守ってくれている、という安心感を抱くことができます。すべて自力で解決しようと歯をくいしばるのではなく、必ず良い道が備えられていると安心することにより、私たちは直面することに全力投球できるのです。
4.思いがけない出来事がもたらすもの
ある出来事が思いがけない意味をもった私の体験を、二つほどお話ししましょう。
前年のA級順位戦を勝ち続けた私は、一九八二年三月に名人戦の挑戦者になりました。そのとき名人であった中原誠さんを相手に、四月から七月にかけて大熱戦を繰り広げた末、私は名人のタイトルを獲得しました。その年の一月、棋聖戦の五番勝負で私は二上(ふたかみ)達也さんに負けていました。もし勝っていたならば、六月頃に名人戦と同時に棋聖戦を戦うことになっていたのです。棋聖戦敗退は残念なことでしたが、負けたことによって名人戦に集中することができました。同時に二つのタイトル戦を戦うことは荷が重いことですので、もし棋聖戦で勝っていたら、名人にはなれなかったかもしれません。
もう一つは、プロ棋士を引退したときのことです。二〇一七年に、日本将棋連盟の規定によって私は引退することとなりました。一般的に、引退は悲しいことと受け取られるかもしれませんが、私の場合は「神さま、引退ということですね。わかりました。静かに受け入れます」という気持ちで受けとめていました。… すると、仙台白百合女子大学の客員教授、テレビの報道番組出演や私の番組の制作などのお仕事をいただき、プロ棋士としての現役時代以上に忙しい日々を送るようになったのです。
一昔前のカトリックには、司祭や修道者が上に立ち、信徒は下にという考えがありました。しかし今は異なり、それぞれが自分に与えられた使命を生き、宣教に励むようにと言われています。こうした促しを受けて、私もこうした本やさまざまな機会を通して神さまやキリスト教をみなさんにお伝えしているのです。私がいただいたすばらしい恵みをみなさんにも知っていただきたい!と。


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