2020年御翼12月号その4

         

恵み(ガラシャ)という洗礼名の明智玉

  細川ガラシャ、本名:明智玉(あけちたま)は、1578(天正六)年、織田信長を慕う細川忠興の妻となった。政略結婚であったが、二人の子に恵まれ、幸せに暮らしていた。しかし1582(天正十)年、ガラシャの父・明智光秀が主君である織田信長を討ち滅ぼす(本能寺の変)。忠興は、謀反人・明智光秀の娘とは暮らせないと、ガラシャに離縁を宣言、彼女を山奥に幽閉した。この幽閉には、ガラシャを戦乱の世から隔離して、安全を確保してあげようという忠興の優しさでもあった。
 二年後、信長に代わり、権力を握った豊臣秀吉が、忠興にガラシャとの復縁を許す(1584年)。大阪に移ったガラシャは大きな苦しみを抱えていた。それは、父の光秀が助けを求めてきたのに、何もできなかった罪悪感、父親を見殺しにしたという罪の意識に長いこと悩まされていた。
 大阪の屋敷に移ってきて三年、侍女の清原いとがキリシタンであり、ガラシャは、いつも明るい態度でいるいとからキリストの教えを聞く。ガラシャは忠興が九州に出陣し、屋敷を留守にしている間に、2㎞先の大阪の教会に出かけた。ガラシャは教会での教えに心を揺さぶられる。キリスト教では苦しみを一人で持ち続けるのではなく、キリストのゆだねることで、心には安らぎが得られる、ガラシャは、これこそ自分を罪の意識から救ってくれる教えではないかと受け止めた。しかし、1587(天正十五)年、秀吉は急速に影響力を強めるキリスト教を警戒し、宣教師を追放した。教会は取り壊され、大阪にいた宣教師らは九州に逃れた。しかしガラシャは、いとを通して洗礼を受けた(洗礼名のガラシャはスペイン語のグラシアで、神の恵み)。ガラシャは忠興に内緒で、キリシタンとなる。
 信仰はガラシャを変えていった。ガラシャは怒りやすかったのが、忍耐強く、穏やかになり、顔にはいつも喜びをたたえていた。侍女たちにも教えを説き、キリスト教に導いていた。しかし、忠興は秀吉の命令通り、キリシタンを迫害した。忠興はキリシタンの侍女の髪を切り、クビにしたり、キリシタンの乳母を些細な失敗で捕らえ、鼻と耳を切って追い出したりしたという。ガラシャにも、「たとえそなたでもキリシタンはならぬ」と忠告した。ガラシャは離婚したいと宣教師に相談するが、彼らはガラシャを諭す。「一つの十字架から逃れる者は、さらなる大きな十字架を背負う」と。長い葛藤の末、ガラシャは思い切って、忠興に信仰告白する。すると、忠興は意外にもガラシャの信仰を認めた。それは、「ガラシャ自身がキリスト教徒になった後に、ずいぶん態度が変わり、非常に穏やかになっていった。その様子を目の当たりにしていた忠興が、これはキリスト教に改宗したからなのかと、忠興もだんだんとキリスト教に対する理解を示すようになっていったんじゃないか」と福岡大学の山田貴司准教授(日本中世史)は言う。
 キリスト教への弾圧が弱まると、忠興はガラシャのために礼拝堂をつくらせた。信仰告白というガラシャの行動が、自らの道を切り開いた。「ガラシャはキリスト教に出会う前には、自分の運命を自分で決めることができない女性だった。しかし、キリスト教に出会ってからは、自分でいろんなことを決めていくことができるという意識に目覚めたのだろうと思います」と、東京大学特任教授の郭 南燕氏(キリスト教宣教史)は言う。ガラシャの忠興への思いにも変化が現れる。それは、遠征中の夫への手紙にも表れている。そこには、「殿のことを懐かしく、恋しく思っております」とある.


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