2020年御翼6月号その2

         

一条真也『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)より

 日本では、人が亡くなったときに「不幸があった」と言う。しかし人は皆、必ず死ぬ。私たちは「死」を未来として生きている。その未来が「不幸」であるということは、どんなに素晴らしい生き方をしても、最後には不幸になるということになってしまう。亡くなった人は不幸な「負け組」で、生き残った人たちは「勝ち組」なのだろうか。そんなはずはない。死は決して不幸な出来事ではない。愛する人が亡くなったことにも意味があり、残されたことにも意味がある。[一条真也『愛する人を亡くした人へ』(現代書林)より要約]
 悲嘆を乗り越えるというのは、愛する人を亡くす以前の自分に戻ることではない。深い悲しみにもだえた人は、苦しい経験を通じて、新しいアイデンティティを獲得したのである。以前よりも成熟した人格へと成長しているのだ。
 (死生学の第一人者アルフォンス・デーケンの悲嘆教育)
 例えば、歌手のカレン・カーペンターは拒食症で早く亡くなったが、その両親は遺産の一部を使って拒食症の研究機関を設立した。また、がんで亡くなった俳優のジョン・ウェインは生前から、がん研究基金を集め、死後はその遺族が研究所を完成させた。
 このようなことを、「悲しみの社会化」という。社会化とは、亡くなった人の遺志を生かして、残された人が何らかの行動を起こすことである。ボランティア団体などで活動することも、立派な悲しみの社会化である。他人のために少しでも役立ちたい、悲しんでいる人を少しでも助けたい、そして自分も癒されたいという思いが、そこにはある。悲しみを社会化する中で、愛する人を亡くしたことの意味は更に深まり、それが残された人の生きるエネルギーとなるのである。


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