2020年御翼6月号その4

         

「学問のすすめ」と「脱亜論」―― 福澤諭吉

  慶應義塾大学の設立者で、有名な大ベストセラー『学問のすすめ』を書いた福澤諭吉(一八三五-一九〇一)は、大分県・中津藩の下級武士の家に生まれた。そこでの厳しい身分制度に疑問を感じていた福澤は、西洋文明に触れたいと、幕府の使節団に志願、咸(かん)臨丸(りんまる)でアメリカ・サンフランシスコに渡った。
 そこで福澤が驚いたのは、最新の近代的工場などではなく、日本とは全く異なるアメリカ社会であった。徳川家が代々権力を持っている日本に対し、初代大統領ジョージ・ワシントンの子孫が無名の庶民になっており、家庭内で男女が平等であった。米国には、日本のような身分制度や男尊女卑がないことに感心した。帰国した福澤は、明治になって『学問のすすめ』を出版する。その中の一節、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」は、神の前に人は生れながらにして差別なく、平等であるということを説いている。しかし現実は、富める者と貧しき者に分かれており、それは学問をするかしないかで分かれているのだとしている。そして福澤は実学(福澤はそれに「サイエンス」とふりがなを振っている)という学問を勧めている。実学とは、単に科学だけでなく地理学、物理学、歴史、経済学などを含む。それは合理的であって実用性の高い学問である。
 『学問のすすめ』は、当時の日本の身分制社会を打破し、身分に束縛されない個人の尊厳を示す言葉であり、福澤はそれを故郷の中津の人々のために書いたと記している。
 人類は神の御前に平等、という福澤の思いは、同郷に対してのみならず、海外、特に朝鮮の人たちにも向けられた。幕末に、日本に続いて開国を行った朝鮮では、日本のような近代化を目指す開化派が登場し、清の影響下での国の存続を目指す守旧派と対立していた。福澤はこの開化派に注目し、多くの留学生を慶應義塾に受け入れ、彼らと共にアジアの近代化・独立を目指した。しかし開化派によるクーデター・甲申事変が発生、これが清国の介入でつぶされ、福澤が世話した留学生も多くが命を失う。その三か月後、福澤は「脱亜論」を発表する。「学問のすすめ」の13年後である。当時、清国は「甲申事変は日本の陰謀である」と世界にアピールしており、欧米諸国などに日本に対する嫌悪感が拡がりつつあった。そこで福澤は、日本は中国や朝鮮とは違って、西欧と価値観を共有できるということを「脱亜論」によって訴えたのだった。この脱亜論が日本のアジア侵略を進めるものだという意見があるが、この脱亜論は発表当時全く話題になっておらず、政治的にも世論的にも全く影響を与えていないという。福澤は、古い体制を持ち続けるアジアとの決別を訴えているが、実際には日本に亡命した開化派の金王均を援助した。そして彼の演説の素晴らしさから、金を是非日本の総理にしたい、と記しているという。
 日清戦争によって朝鮮から清国の勢力が一掃されると、福澤は再び朝鮮から開化派の留学生を多数慶應義塾に受け入れた。福澤は、留学生達を演説館に連れて行き「自由の気風はただ多事争論の間にあり」と自身の考えを彼らに伝えた。慶應義塾で学んだ留学生達は祖国の発展に寄与した。

 福澤諭吉自身は、キリストへの信仰を表明していないが、子どもたちには聖書の神を畏れ、父母を敬うことを家訓「日々の教え」で説いた。そのお陰で、聖書の真理は子どもたちの心の奥深くに刻み込まれ、魂の回心をもたらしている。


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