2020年御翼8月号その3

         

祈りが答えられない時
[H・E・フォスディック『祈りの意味(新教出版社)より抜粋]

 人の願いが聞き入れられないもう一つの明らかな理由は、人が絶えず祈りをもって、知的作業や労働の代わりにしようとするからである。人が神と協力する三つの主要な方法は、思考と労働と祈祷の三つである。これらの三つは他のものに取って代わることはできない。それぞれがその特別な領域を持っているからである。
 わたしたちの祈願が境界を越えて、祈りによってではなく、ただ労働と思考にとってのみ、達成される領域に侵入するならば、その祈願は聞かれないであろう。また例えば、有効な思考によってのみ完成されることを、祈願によって完成しようと試み、祈る場合がある。もしすべてが祈りによってのみ実現されるとするならば、この世界はどうなるか考えて欲しい。もし人が航海術の知識によるのと同様に、祈りによって船を運行することができるとするならば、また工学的法則の研究によるのと同様に、祈りによって人が橋をかけることができるとするならば、また単に祈るだけで、家々に電灯をともし、電信を送り、哲学を体系づけることが出来るとするならば、一体どうなるであろうか。
 御伽話(おとぎばなし)にあるように、願ったことがなんでも叶えられる祈りの力をわたしたちが持っているとすれば、わたしたちは明らかに自分の知的能力を用いようとは決してしなくなるであろう。もし人生が成長と訓練を意味するならば、どんなに人が激しく祈ったとしても、人が考えるまでは決して実現しないことがあるはずである。もし少年が遊びたいという理由で数学の勉強を父親にしてもらいたいと願う場合、父親はそれをするであろうか。父は息子を愛しているから、その勉強をしてやることが出来るが、それをしてはならないのである。父親は少年の願いに答えて、激励したり、助言を与えたり、勉強をやり抜くまで、そばに立って見てやることはできるであろう。〔それと同様に〕時には厳しく見えるかもしれないが、個人に対しても、民族に対しても、願いを容易に聞いて救うよりも、苦痛に満ちた努力と苦労という名の訓練にじっと耐えることの方を、神はわたしたちに要求なさるのである。
 祈りの王国の偉大なしもべたちを学習するならば、彼らがこのような〔訓練の〕学びを常識として受け入れていたことを知るであろう。スポルジョンは「神に祈りなさい。しかしハンマーは打ち続けなさい」と述べている。祈りの時間の長さは、祈りにおける決定的事柄ではない。アウグスティヌスは「人が最も言葉を少なくするとき、最も多く祈っているのであり、最も言葉を多くするとき、最も少なく祈っているのである」と述べている。


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