2020年御翼9月号その3

         

コロナウイルスを通して神は何をしようとしておられるのか

 ジョン・パイパー『コロナウイルスとキリスト』(いのちのことば社)より要約
 神は、コロナウイルスの大流行によって、神を軽んじる罪が、どれほど道徳的に恐怖すべき、霊的に醜悪なものであるかを、目に見える物理的な形で世界に示しておられる。人の罪こそが、あらゆる物理的な不幸が存在している理由である。神は世界を完璧なものとして創造された。「神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった」(創世記一・三一)。しかし、人類が罪に堕落したときから今日のこの日に至るまで、歴史は人々の遺体を載せては運び去っていく災いの流れそのものであった。
 神が物理世界を呪いの下に置かれたのは、この世の病や大災厄(だいさいやく)に見られる物理的に恐怖すべき現実を、罪のすさまじさが生々しく示された写し絵とするためではなかろうか。ことばを換えると、物理的な悪は、神への反逆という道徳的な暴力を指し示すたとえ話であり、劇であり、道しるべなのである。なぜそれが適切な道しるべと言えるのだろうか。それは、堕落以後、罪に目をくらまされた状態にある現在の私たちには、神に対する罪がどれほどおぞましいものであるかを悟ることも、感じることももはやできないからである。
 人々は、自分が日々、心でどれほど神を卑しめているかについては、嘆き悲しまないだろう。しかしコロナウイルスがやって来て、自分の健康が脅かされるようなことになると、神に注意を向ける。肉体的な痛みは、世界の何かが恐ろしく間違っていると告げる、神のラッパの響きである。病と奇形は、霊的な領域で罪がどのような姿をしているかを、神が物理的な領域で現実に描き出したものなのだ。種々の大災厄は、罪が今すぐ受けてしかるべきものを示し、いつの日か、さばきがやって来たときに、一千倍もすさまじい形で受け取るだろう刑罰を神が示す前触れなのである。それらは警告である。神に対する罪が、どれほど道徳的に恐怖すべき状態であるかを、また、どれほど霊的に醜悪なものであるかを知らせようとして打ち鳴らされている警鐘なのである。
 自分の造り主を軽蔑的に扱い、無視し、信用せず、卑しめることが、どれほどおぞましく、どれほど無礼で、どれほど忌み嫌うべき態度であるかを、心底から感じ取れれば、どんなによいことだろう。そう感じ取らなければ、罪の醜悪さからの救いを求めてキリストのもとに向かおうとはしないであろう。神は、物理的な不幸――コロナウイルスのような――の中で、罪の醜さをまざまざと描き出しておられる。そして今、神はあわれみに満ちた思いから、私たちに向かってこう叫んでおられるのだ。目覚めよ! 神に対して罪を犯す状態は、このような姿をしているということなのだ! それは、すさまじいほど恐ろしく、醜いものなのだ。そして、コロナウイルスよりもはるかに危険な状態なのだと。

 私たちが恐怖に打ち勝ち、平和を保つには、生活習慣を一定にし、できるだけ日常を保ち、孤立せずに人とつながり祈り合い、励まし合うことが必要です。すべての主権は主にあります。自分の悟りに頼るのではなく、心を尽くして主により頼みたいと思います。(駒込えぜる診療所 院長 芳賀真理子医師)「百万人の福音 二〇二〇年八月号」


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