2021年御翼1月号その4

       

互いに救出者

 創世記2章18節に、「神である主は言われた。『人がひとりでいるのは良くない。わたしは人のために、ふさわしい助け手を造ろう』」とある。この創造物語を読むと、「人」はアダムという男性で、それに助け手としての女性(3章20節で「人は妻の名をエバと呼んだ」)が造られた、と一般に思われている。テモテ第12章13節でもパウロが、「アダムが初めに造られ、それからエバが造られた」と言っている。
しかし、アダムという名が最初に登場するのは、創世記2章20節であり、そもそもアダムとは、ヘブライ語で人間一般を意味する語である。従って、「人がひとりでいるのは良くない」と創世記二章一八節で言われているのは、総称としての「人」を指す。もし、ここでの「人」が男性を指して使われていたとするならば、仮に女性が造られていなかった時点があったとして、そのときの「人」がはたして「男」と言えるのかという問題が生じる。創造物語は、天地や人が造られる順番や方法を説明する自然科学ではなく、神学の分野である。人のあばら骨から助け手が造られる、とは助け手はハートのそばにいる存在という意味なのだ。
 「助け手」とは、助手という意味ではない。「助け手」と訳されているヘブライ語の「エーゼル」は、救出者を指す言葉である。つまり、創世記2章18節では、人には救出者が必要であると言われ、男にとって女が、女にとって男が「救出者」であるということが言われているという解釈ができる。[稲垣緋沙子『神のかたちとして』(いのちのことば社)より]それでもアダム(男性)が先に創られたような印象があるのは、人生の方向を定めるのに、男性の性質が役立つということを、パウロは指摘しているのだ。 
 礼拝の秩序を守ることが、なぜ大切なのだろうか。それは、礼拝が「人生のリハーサル」となるからである。「リハーサル」では、登場人物の性格づけを明確にし、セリフを覚え、役柄をこなせるよう繰り返し演じる。礼拝は、神の子となるための練習、リハーサルなのだ。礼拝がライフスタイルを練習する場、「リハーサル(下稽古(したげいこ))」の場となるとき、キリスト者が隣人と社会に対して何を成すべきかが自(おの)ずから明らかになる。ヨハネ4章24節に、「神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」とある。人間の最も高度な夢、思想、理想、願望の根源となるのが人間の魂である。この領域において神と交わることが礼拝であり、神と交わる唯一の方法が、キリストの真理、即ち十字架の贖いなのだ。礼拝において、私たちの魂が、神からの夢、理想、願望で満たされることが、人生のリハーサル(本舞台へ上(のぼ)せる前の予習)となる。


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