2021年御翼11月号その1

       

「霊的受容度」を見極める

 福音を未信者に伝えようとするとき、相手が福音に対してどのくらい心を開いているかを見極めなければならない。福音に対して非常に心を開いている人もいれば、堅く心を閉ざしている人もいる。霊的な話に熱心に耳を傾ける人もいれば、全く受け付けない人もいる。従って、伝道する上で、次の二つの事実を覚えておく必要がある。
 第一に、「あなたが出会う人たちの中には、キリストに人生を明け渡す決心をする間際まで来ている人もいれば、まだ信仰を持つまでは長い道のりの人もいる」ということである。
 第二に、「効果的な伝道というのは、未信者の人がどれくらい霊的に心を開いているかを見極め、その人が次の段階に進むのを助けることである」ということである。
「霊的受容度」の段階を見極める霊的成長スケール(リック・ウォレン)
 -6 自己満足、懐疑的、抵抗、霊的に無関心(抵抗期)
 -5 満たされていない必要や心のむなしさに気ついている(受容期)
 -4 疑問に対する害えや、問題に対する解決を求めはじめている(求道期)
 -3 自分自身とクリスチャンたちとの違いについて考えている(考慮期)
 -2 なぜ、そしてどのようにクリスチャンになるのかを学んでいる(理解期)
 -1 キリストを信じ受け入れる準備が整っている(準備期)
 0 キリストにある新しい命
 +1 バプテスマを受けて神の家族である教会につながる
 +2 霊的成長に必要な習慣を身につける
 +3 神から与えられている賜物を用いて他の人に仕える
 +4 福音を末信者に分かち合う
 +5 神の栄光のために自分の人生の目的を生き抜く
 毎週礼拝に出席する多くのクリスチャンが、福音を末信者に分かち合う(+4)段階に行くのは勇気のいることである。しかし、信仰を押し付ける「狩り」ではなく、相手の「霊的受容度」を見極めた上で、その人の意思を尊重して福音を伝える「漁」ならば、少しずつできるであろう。リック・ウォレン『人生の使命を発見する』(パーパス・ドリブン・ジャパン)
日本人の精神構造の基盤が神道(または仏教)にあるのならば、それらをキリスト教に対抗するものとしてではなく、真理を受け入れる基盤とすることが、漁師的なアプローチである。しかし、たいていのクリスチャンが、伝道を「狩り」のように考えてしまう。狩りは攻撃的で対決的、撃ち落す一発勝負である。一方、漁はおだやかで、傷つけることなく魚を引き付け、何度でもチャンスがある。福音を押し付けるのではなく、相手の意思を尊重しながら伝えるという雰囲気が、漁という言い方によく表れている。
東京大学の元宗教学の教授・金井新二先生は、キリスト教を日本に根付かせるには、「日本人のキリスト教」を自ら作ってゆくことが大切だと、著書『現代宗教への問い』で以下のように言う。
「仏教が日本人のものとなった鎌倉時代、仏教者たちは、日本古来の神道は真の宗教(本地)である仏教が到来するまでの、不十分ではあるが真理を含む準備(垂迹―すいじゃく)であったと教えた(本地垂迹)。そして日本文化の文脈の中に外来宗教である仏教を移植したのである。日本のキリスト教がこのような神学を生まなかったとすれば、そこには、何か驚くべき対象認識の甘さ、対象軽視、驚くべき知的怠慢があったのではなかろうか。日本のキリスト教はまだ「翻訳文化」の段階、つまり奈良仏教の段階にあるのだろうか。少なくとも、日本のクリスチャンたちがキリスト教を良い意味で『日本化』するという巨大な歴史的課題の前に立っていることだけは確かであると思われるのである」と。(1992年12月22日)そして、西洋的な聖書学をかじっている牧師よりは、体で読んでいるような牧師をむしろ評価しなくてはならない、と先生は記しておられる。

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