2021年御翼4月号その1

       

新島八重(にいじまやえ)新島宗竹(そうちく)と茶道

 会津藩の砲術師範を務める山本家に生まれた山本八重(一八四五~一九三二)は、戊辰戦争で亡くなった弟の衣装で男装をして会津城に入り、銃をとって新政府軍と闘った。そのため、「幕末のジャンヌダルク」とも称され、武士の精神を持った女性とのイメージが強い。しかし、会津藩が降伏すると、八重は心のよりどころである故郷を失う。そして砲術を八重に教えた兄の勧めで宣教師から英語を学び、自然と聖書の教えに触れ、やがてクリスチャンとなり、新島襄の妻となった。
 米国帰りの新島襄は、妻を「八重さん」と呼び、自分のことは「襄(じょう)」と呼び捨てにさせた。そのように夫と対等にふるまう八重を、世間は悪妻と呼び、襄が創設した同志社の学生らからも批判されるようになる。
 確かに八重は、信仰を持つ以前から男性中心の考え方に真正面からぶつかってきた女性であった。その八重にとって、「男も女もない」という聖書の教えは、無理に男性になるのではなく、女性として自分らしく生きる道をひらいてくれる嬉しい知らせだった。
 八重は44歳でやもめとなるが、襄の遺志を継いで同志社の発展のために働き、学生たちの世話をした。襄の死後、初めての同志社の卒業式で、学生たちが実際に八重に接してみると、八重がお高くとまっていると悪く思っている人がいるのは、全く根拠のないことだと実感したという。八重がキリストの愛に包まれて本当に穏やかで、絶えず微笑みを浮かべ、愛嬌のある会津なまりで学生たちをもてなしてくれるのに、皆、親しみを感じた。八重はすべてのことに感謝する信仰を持つようになり、未亡人になってからも、天国での再会を夢見て、教会としても使っていた広い家に独り住むことに、まったく寂しさを感じていなかった。
 新島襄は、「社会改良ということにかけては婦人の影響力は男子のそれに勝っています。婦人の力は本当に偉大です」と言い、女性たちにも社会のために何かをする機会を与えなければならないと言い残している。その襄の死後、八重は新たに自立的な人生を歩み始める。
夫の死の3カ月後に、八重は日本赤十字社の正社員になり、篤志(とくし)看護婦(自ら志願して戦地へ赴き、負傷者の手当てに従事した婦人のこと)の資格も取った。明治27年の日清戦争では、50歳で従軍看護婦となり、60歳で日露戦争でも従軍看護婦となり、陸軍病院で負傷兵の治療にあたった。当時、看護は男性の仕事で、女性が病院で看護の仕事をしても、社会的には軽蔑の目で見られていた。しかし、八重の献身的な看護から、それまでは皇族しかもらえなかった勲七等および勲六等の宝冠章を、八重は民間女性として初めて受賞した。これにより、看護師の働きを社会に認識させることができた。
 更に、八重は茶道を女性に開いた一人だった。江戸時代末期までは茶道は武士階級の男性が行うものだった。現在では八割以上が女性の嗜み事となっているが、茶道界が女性中心になった状況をつくり出したのも、裏千家十三代圓(えん)能(のう)斎宗室と新島八重なのだ。
夫亡き後、八重は茶道教授の資格を取得、茶名「新島宗竹」を授かる。以後は、京都に女性向けの茶道教室を開いて自活し、裏千家流を広めることに貢献した。孤独になった八重を自立した後半生へと導き、八十八歳で永眠する間際まで支えたのは茶の湯だったのだ。
 お茶は元来が禅宗のお坊さんによって中国から日本に伝わったので、お寺と深い関りがある。一方で、茶道を開いた千利休はキリシタンであり、キリシタン大名とのつながりが強く、茶道の様式にはカトリックのミサの影響がある。八重が茶道に没頭したのは、茶道を通じて様々な人と知り合い、伝道に役立つと考えたからかも知れない。晩年の八重は、イエス様への信仰と茶道により、穏やかに暮らしたのだった。

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