2021年御翼4月号その4

       

「あの歌声を再び」テノール歌手 ベー・チェチョルの挑戦 

「アジアのオペラ史上最高のテノール」と称された韓国人クリスチャンのべー・チェチョルさん、25歳でオペラ歌手としてデビュー、ヨーロッパの歌劇場で活躍し、二〇〇三年からは毎年来日していた。「彼の歌を一度聴けば、だれでもオペラファンになってしまう」と言われるほど、オペラマニアから初心者までファンを獲得していた。ベーさんは、およそテノール歌手に求められるすべてを兼ね備えた声の持ち主で、それは美しい容姿に恵まれた人が、一瞬で人の視覚を魅了するのと似ている、と、マネージャーの輪嶋東太郎さん(慶応義塾大学法学部卒)は言う。
 ところが、世界のオペラ界の頂点に駆け上ろうとしていた二〇〇五年、ベーさん(当時36歳)は甲状腺がんを患う。その摘出手術の際、声帯と横隔膜の両神経を切断、歌声と右側の肺の機能を失ってしまった。何とか助けてあげたいと思っていた輪嶋さんは、音声外科手術の世界的権威、京都大学名誉教授・一色信彦氏の存在を知る。二〇〇六年、ベーさんは声帯の機能を回復させる手術を受け、厳しいリハビリを乗り越えて3年後、舞台復帰を果たす。オペラ歌手としてではなく、教会やキリスト教の集会で聖歌や讃美歌を歌うようになったのだ。「賛美歌というのは、どんな人でも歌うことができます。歌が上手だろうが下手だろうが、そんなことは関係ありません。心で神を賛美するものなのです。声ではなく、心の祈りに意味があります。賛美歌は私に力を与えてくれます。私の心を動かす歌とも言えるのです」とベーさんは語る。
かつてベーさんは、自分が歌えば聴く人の心に感動を伝えられるのだという、確かな自信があった。「がんになる前、歌いたいという思いの中には、何か欲望が多く混ざっていたと今は思います。もちろん他の人に害をもたらすような欲望ではありませんが、自分自身を満たすためにタラントを使っていたのです。しかし、今は神と一緒に仕事をしているという感じがします」とベーさんは言う。本来、若いアジア人男性が甲状腺のがんになるというのは極めて稀で、それがアジアの歴史に「百年に一人」と言われるテノール歌手となると、その確率はゼロに近い。その病を、自分が賜物を神に献げる悔い改めの機会だったとベーさんは言うのだ。「病む前は、私は歌がうまい人の一人でしかなかったけれども、今は、人々に何らかのメッセージを伝えられる立場になったのかもしれないと思うようになった」という。
 甲状腺がんとなったベーさんは、その試練の中でも、落ち着いておられ、精神的にも安堵感があった。自分には信仰がある、神さまがおられ、絶対にこれには意味があって、自分を常に守ってくださるという深い信仰があったことが大きかった本人は言う。そんなベーさんを間近で見ていたマネージャーの輪嶋さん、当時はクリスチャンではなかったので、「がんになったのは、先祖供養をしなかったからだ」と本気で思い、更に、リハビリをする過程で、ベーさんがどんどん幸せそうな顔になって行く様子を、奇妙で気味が悪い、とさえ思ったという。
神社で一生懸命ベーさんのために日々祈る、かつての輪嶋さんに、ベーさんはこう言ったことがある。「僕のために祈ることに感謝します。祈ってくれることはいいけど、イエスの名前で僕のために祈ってください。そうすれば、あなたの祈りは聞き入れられます。例えば、封筒に間違った住所を書いたら、違う場所に届けられてしまうでしょう」と。
 「声が数値で測れる大きさ、高さ、長さから比べたら、カムバックした頃のベーさんは、かつての20~30%もない声でした。それにも関わらず、前のベーさんのことを知っている人も含めて、多くの人が彼を聴いて、『ベーさんは前よりも素晴らしい歌手になった』と言うのです。その経験を通して私は、音楽の一番美しい部分は、耳には聞こえないのだ、と改めて思いました。確かに数値は小さくなったかもしれないけれど、音楽の一番美しい、耳に聞こえないところは、何倍も大きくなった…ということは、彼の歌は今、歌の形はしているけれど、それは愛そのものだし、祈りそのものになったのだと思います」と輪嶋さんは言う。
 ベー・チェチョルさんの最近のアルバム「The Singer(IとII)」(日本コロンビアからメジャー・デビュー)には、アメイジング・グレイス、ダニー・ボーイ、マイ・ウェイ、ラブ・ミー・テンダー、アンチェインド・メロディー、もしもピアノが弾けたなら、赤とんぼ、この道、長崎の鐘、見上げてごらん夜の星を などが収録されている。「韓国人の自分に、日本の人たちがこんなに親切にしてくれるのは、自分には、日本の人たちに宣教する重荷があるからだと感じている」とライブで語ったベーさんである。宗教アレルギーとなっている日本社会で宣教するには、日本人なら誰もが愛するこれらの楽曲から入ることが第一歩であることを知っているのであろう。クリスチャンとなった東太郎とべーさんは、神から与えられた新しい声で、本来の使命を果たせるように共に歩み、その歌に触れた人たちが、悲しみや苦しみ、絶望から救い出されることを願っている。

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