2021年御翼5月号その4

       

明治期の英国人宣教師による千葉宣教  

  一八七三(明治六)年、キリスト教が解禁されると、欧米の宣教師が相次ぎ来日する。しかしこの時期、英国では日本宣教の志願者が少なく、英国聖公会から来日した宣教師はわずか4名だった。東京にはカトリックを含め、沢山の宣教師が既にいる。特に英国聖公会宣教協会は、東京宣教を継続するには、宣教師の増員が必要であるが、増員が不可能ならば、東京宣教は中止すべきだと考えた。
 しかし、すでに東京に来ていた英国人宣教師は、東京宣教続行を要請し、東京を拠点にしながら、千葉県の北部と南部に対して強力な宣教活動を展開する。明治30年当時、東京府の人口は約200万人、対して千葉県は人口約120万人、しかし千葉は広大でその大部分は小さな町や村に住んでいる。住民一万人以上の町といえば、銚子町(3万人)、千葉町(2万人)、船橋町(1万人)だけであり、このうちでキリスト教会があるのは千葉町だけであった。キリスト教の宣教という点では、千葉県は殆ど手付かずの状態であり、英国聖公会のバンカム宣教師は、この「東京に一番近い郊外地域」に宣教の大きな可能性があると考えたのだった。原則として、日本人クリスチャンは、教派の違いを殆ど重視しないことも、人数の少ない聖公会にとって有利に働いた。
以下は一九〇三(明治三十六)年、聖公会本部委員会に提出された、千葉宣教に関する年次報告書からである。
「那古(現在の館山市那古)では岡本さんという活動的な女性奉仕者がいて、熱心に働いています。大勢の人が彼女の話に耳を傾けています。昨年、その中の数人が洗礼を受けました。根本(現在の南房総市根本)の見通しも有望です。ここの状況は、イマムラさんの2年間にわたる信仰深い証しによって生まれたものです。彼は、その当時、小学校教師で、いまは見習い伝道師です。イマムラさんは、小学校の子供を集めて、福音の物語を教えました。
 多くの子供がそのメッセージを身に付けました。そして子供たちは幼稚なやり方ではありましたが、キリストに従おうとしたのです。子供たちはかなり強い妨害を受けました。小学校の校長と彼にそそのかされた子供たちの強い妨害を受けました。しかし彼らは着実に進歩していきました。子供たちはクリスマスに集会を開きました。7人の子供が、そこに来た60人の大人にクリスマスにふさわしいメッセージを唱えてあげたのです。このことは素朴な村の大たちに強い印象を与えたようでした。
 村の人たちは、子供たちにそうさせることができるのはキリスト教だけだと言っています。小学校の先生たちは、子供たちにそんなことをさせることはできませんでした。これまで、子供たちは、こんな大きな集会で囗を開くことなどできなかったからです。
 キリスト教が与えた勇気と落ち着きを見てごらん!きっとキリスト教の中には何かとてもよい物があるんだ!砂取(すなとり―現在の南房総市)という隣村に住む、まだ洗礼は受けていないけれど、常に村の人々の福祉を心がけている人が「キリスト教こそ、我々が必要とするものだ。大勢のクリスチャンがいる大貫では、人々は我々より礼儀正しく、村も繁栄している。だのに我々の村では、騒ぎしか起こっていないのだ」と言っています。その通りです。こういう集会はすべて、村にある仏教の寺で行います。この寺は無住なので、村の管理人は、我々の集会のためにその寺を貸してくれるばかりでなく、数日の間、日本人で基督教の宣教に従う人たちを宿泊させてくれるのです」
名取多嘉雄『明治期、英国人宣教師による千葉宣教を追う』(文芸社)より



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