2021年御翼7月号その4

       

仕事を通して神と共に創造する ―― ケン・シゲマツ牧師

 神と共に創造する
歴史を通して仕事は、やらなければいけない不快なものと見られてきました。私たちの仕事は刑罰や呪いの結果であり、早く逃れたいと望むようなものなのでしょうか。そうだとしたら、起きている時間のほとんどを働いて過ごす私たちにとって、なんという悲劇でしょうか。
 聖書は、仕事について全く違った見方をしています。仕事に関する聖書の話では神がまずお働きになり、重要な目的を果たすため私たちに意味ある仕事を委ねられました。創世記二章一五節にこう書いてあります。「神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。」アダムとエバがエデンの園で神に背き、罪を犯す前、つまり罪の呪いがこの世に入ってくる前から、アダムは働いていました。ですから、労働は堕落や罪の呪いの結果ではなく、私たちの生活のごく自然な一部分であり、私たちはそのために造られたと言えます。
 十二歳から三十歳までのイエスの人生についてはあまり知られていませんが、おそらくほとんどの時間を仕事に費やしておられたでしょう。ルカの福音書によると、この世の父親に倣い、通常「大工」と訳される「テクトン」になりました。テクトンという言葉は、今日のいわゆる「日雇い労働」を意味したとジェームス・マーティンは指摘しています。ということは、イエスは工事現場や畑仕事、収穫の手伝いなどの肉体労働も経験された可能性があります。イエスがさまざまな仕事を経験されたとすると、彼のたとえ話の多くに家を建てたり、種を蒔いたり、ぶどうの木の剪定など、仕事が描かれていることも納得できます。イエスの地上における最後の三年間は、彼の仕事が教えと弟子訓練に移行しました。イエスはこう言われました。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」(ヨハネ五・一七)ヨハネの福音書で、聖霊が私たちを教え、罪を指摘し、神に私たちを導く働きをしておられることがわかります(ヨハネ一六・八)。もし、聖霊が私たちの内におられるなら、福音を分かち合う時だけでなく、仕事で営業のプレゼンテーションをする時も、宣教旅行でドミニカ共和国に学校を建てる時だけでなく、日雇い労働者として家を建てる時も、私たちを通して聖霊はお働きになります。
 私たちが働くとき、神と共に何かを創造しています。創世記二章五節にはこう書いてあります。「地には、まだ一本の野の濯木(カンボク)もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。」神おひとりでできないことなどありませんが、神は敢えて私たちと共に創造することをお選びになりました。神の仕事は、私たちとのパートナーシップによって行われます。あなたの仕事は特別霊的でないかもしれませんが、それが合法なものである限りは、神と共に何かを造り出しています。何かを創造する満足感を味わうとき、仕事を刑罰のように感じないはずです。それが手を使うものであろうと、頭を使うものであろうと、仕事は創造主との共同作業です。充実した生活のルールの一部として、私たちは仕事を経験します。
ケン・シゲマツ『忙しい人を支える賢者の生活リズム』(いのちのことば社)より抜粋・要約

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