2021年御翼9月号その1

       

銃を置いた兵士たち 消えていく沖縄戦秘話

 沖縄県慶良間諸島にある阿嘉島(あかじま)は、美しい海に囲まれた、観光客が多く訪れる小島である。しかし、そこが太平洋戦争末期の一九四五年三月、沖縄戦で米軍が初めて上陸した地であることはあまり知られていない。そして、この島には、殆ど知られていないもう一つの史実がある。沖縄戦では、米軍は沖縄本島とその周辺の島々に上陸、住民を巻き込んだ地上戦が三か月続いた。日米両軍と住民を合わせた死者はおよそ20万人であった。一九四五年六月、阿嘉島では米軍側が日本軍に無血降伏を呼びかけ、日米両軍の間で会談が行われることとなった。六月二十六日、アメリカ側交渉団の実行隊長クラーク中佐は、戦後の新しい日本の再建のためにも必要な人材の無駄な消失を防ぐべきだと力説し、日本軍の幸福を強く求めた。
 しかし、日本守備隊の野田隊長は、「結論を出すための時間が欲しい」と主張、議論は平行線のまま昼を過ぎてしまう。そのときクラーク中佐が一緒に昼食を取ろうと提案した。そして、日米の将兵合わせて百人が浜辺で昼食を共にしたのだった。当時は、米軍側の飯を食っただけでも軍法会議にかかると死刑、アメリカ兵と会っただけでも銃殺されることになっていたという。更に、初日の交渉を終えると、アメリカ側の通訳管の二人が、日本軍司令部への同行を求めた。野田阿智超はこれを認め、丸腰の二人を連れ、部隊本部へ向かった。しかし翌朝、米軍に伝えられたのは、「天皇の許可がなければ降伏することはできない」という降伏拒否の通告だった。
その一方で、日本軍側は米軍への砲撃停止を約束した。更に、「住民は軍規の規制を受けないから、投降は自由意志に任せる」と言った。二回目の会談の終盤に、クラーク中佐は「戦後の世界に平和が訪れるように、お互いの神に一緒に祈らないか」と提案する。日本軍はこれを受け入れ、戦場で敵対する兵士同士が共に祈るという驚くべき光景が繰り広げられた。日米の参加者全員が脱帽してひざまずくなか、従軍牧師が短い祈りの言葉を捧げた。それはオダ軍曹が日本語に通訳した。このときの「停戦協定」は実際には守られなかったが、住民や日本兵までも投降する者が現れた。
 こういった事実は、一九八〇年代にテレビや新聞で取り上げられたが、その後は触れられることがない。沖縄戦では住民が酷い目にあわされた、とする方が一般に受け入れられやすく、小規模であっても、美談があったことを伝えるのは、相当のエネルギーが要るという。
ケン・シゲマツ『忙しい人を支える賢者の生活リズム』(いのちのことば社)より抜粋・要約

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