2022年御翼1月号その2

 

祈りとは

1.神を求めること
人は本来、神の子(神に似た姿)であり、造り主なる神の持つ性質、即ち、愛、尊厳を求める。祈りとは、私たち以上の存在-- 神-- を求める本能的な活動であり、神に似せて創られた人間だけがする行為である。
2.自己を見つめ直すこと(自分を吟味する)
自分の願いは、本当に愛に満ちたことであるか、自己中心的ではないか、前向きで建設的であるか。これらを吟味した時、必ず自分の至らなさ、罪の意識を感じる。それが悔い改めへと発展する。悔い改めれば、神から聖霊の力が与えられる。
3.自分の内面における神の御業を再確認すること
祈りの中で罪を告白し、悔い改めた後は、いつまでも罪の告白をし続けるのではない。自分がどれだけ惨めな人間であるか、延々と神に語り続けるのではなく、神が自分をどれだけ愛しておられるかを、再確認しよう。イエス様の十字架は自分のためであったと知り、それほど神に愛されていることを認識するのだ。ヨハネの手紙 一 1・9「自分の罪を公(おおやけ)に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦(ゆる)し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます」とある。神がゆるしてくださったのだから、自分は素晴らしい存在なのだ、と再確認しよう。
4.自分の意志をキリストに譲ること
イエス様は、ゲツセマネの園で、最も力を生む祈りを祈られた。マタイ26・39「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心(みこころ)のままに」と。神の素晴らしいご計画の一部にして頂いていることを知った時、人は自分に価値を見出せる。祈りの目的は、自分自身が神の意志に近づくことである。フィリピ4・13「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」神が働いてくだされば、自分には偉大な可能性があることを知ろう。人が祈りの力を知らないのは、祈りによって、「自分が欲しいものを、欲しいときに、欲しいだけ貰おう」とするからである。
ボートに乗って、岸に近づいた時、錨を岸の方に投げ、綱を引き寄せることで、ボートを岸に近づけることができる。それは、綱を引くことで、ボートを岸に近づけたのであり、決して岸をボートに引き寄せたのではない。祈りは、私たちの意志を神に近づけるためのものであり、神を人間の意志に近づけようとするものではない。
5.素晴らしい結末を予期すること
どのように問題が解決されるか分からないが、神が必ず素晴らしいことを用意してくださっておられることを確信するのだ。全てが楽に解決するということではない。困難を通して、神は私たちがより良い証人となることを望んでおられる。私たちはこの地上を、観光客のように楽に通り過ぎるのではない。この地で、私たちは神の国の戦士なのだ。
6.感謝を持って喜ぶこと---これまでの神の恵みと、これからの恵みに感謝する
フィリピ4・6〜7「(6)どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。(7)そうすれば、あらゆる人知(じんち)を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」
罪悪感から解放されたことを感謝しよう。恵みを数え上げよう。一つひとつ数えた時、神がどれほどの業を行われておられるか、驚きをもって知ることができる。問題さえも歓迎し、感謝しよう。問題は、成長のための素晴らしい機会となるからである。将来の結末がどうなるか、分からないことを感謝しよう。まだ結論が出ていないということは、神がまだその問題について働いておられるということなのである。目、耳、指、ものを書くための手など、何でも持っているものを感謝しよう。キリストが内在しておられることを感謝しよう。神が私たちを通して人を愛されるのだ。
私たちが神の御手の中にいることを知ったとき、人生への熱意、情熱、抑えきれないほどの人々への愛、神への愛が起こってくる。そのとき、実を結ぶことを期待しよう。


 御翼一覧  HOME