2022年御翼1月号その4

 

キリストの愛が織りなす奇蹟の人生――池田登喜子牧師

池田登喜子著『愛は勝利です』(いのちのことば社)より
 池田登喜子さんは中一(13歳)のとき、骨髄炎と診断される。細菌が右足の傷から大腿骨に入り、腿の筋肉は壊死(えし)し、大腿骨は粉々になっており、右足を切断するしかないと宣告された。二歳の頃、父を病気で亡くした登喜子さんは、叔母に育てられており、手術を受けるお金などない。「この先お前を一人残してしまうと、もっと苦しめることになる…」と涙ながらに叔母は言った。「思い返すと、あの晩おばぁは、一緒に死のう、それ以外にない、と考えていたのだと思います。それがおばぁの、私に対する究極の愛であり、呻きの祈りでした」と登喜子さんは記している。
 翌朝、登喜子さんの家に、全盲の女性が村の人に手を引かれて訪ねて来た。沖縄県根(ね)路(ろ)銘(め)の集落でただ一人のクリスチャン・平良(たいら)カメさんだった。三年前、人づてに登喜子さんの病気を聞いて以来、会いたかったが、連れて来てくれる人がいなかったという。以下は、池田登喜子著『愛は勝利です』からである。
「登喜ちゃん。いろいろつらい目にあってがっかりしているでしょう。私だって失明した時は、みじめでみじめで、何度死のうと思ったことか。うちの井戸に飛び込んでしまおうと思ったこともあったのよ。そんな時、イエス様にお会いしたの。イエス様が私を愛してくださっていることがわかってからは、私はこんなに幸せでいいのだろうかと思うようになったのね。それまでは全盲という環境に支配されていたんだけれど、それからは逆にそういう環境を支配できるようになって、完全に解放されたのね。心の目が開かれて、初めて見える世界があるんだね。それ以来、朝から晩まで神様を讃美しているんだよ」(平良さんは)にこにこしながらそうおっしゃるのです。そんな姿に、私はこれまで感じたことのない新しい光を感じました。
 (私ばっかりこんなひどい目にあって、不公平じゃないか。神なんかいるものか。でも……でも……もし神がいるなら信じたい)…私のメモ書きを読んだ神山牧師先生は、平良さんと一緒においでくださり、私が寝ている戸板のそばまで来られました。周りの人たちから、何かのたたりだ、伝染病だと恐れられ避けられていたのに。膿が出続ける右足。寝たきりでお風呂に入ることができない体。部屋に入っただけでも、ひどいにおいがしたでしょうに。先生は、そんなことは気になさるどころか、私の髪をなでながらこうおっしゃったのです。「苦しかったね……。よくここまで耐えてきましたね…」何という優しい言葉でしょう。先生は目に涙を浮かべたまま、それ以上何も言えないようでした。でも先生のお顔には、イエス様の愛が輝きだしているのがわかりました。(ああ、平良さんが言っていたイエス様って、きっとこんなお方なのだろう)「神様は登喜子さんを愛してくださっているのですよ。でも、私たちの心の中には罪が邪魔をしていて、その愛が届かないんです。太陽を遮る黒雲のようにね」それを聞いた時、私は心がとても痛くなりました。心の中は罪の黒雲でいっぱいだったからです。
……涙にくれていました。すると先生は、「大丈夫です。私たちの罪を、人をねたんだり憎んだりする心を、イエス様がみんなご自分の身に負って十字架にかかって死んでくださいました。ですから、私たちはどんな罪も赦されるのですよ。これは、神様からのあなたへの愛の手紙です」と言って新約聖書をくださいました。その晩私は、さっそく聖書を読みはじめました。間もなく、私はある言葉に目が釘付けになってしまいました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ一一・二八)(こんなことを言う人はだれだろう)
 よく読み直すと、それはイエス様でした。私のように重荷を負っている人のところには、だれも寄ってこようとはしません。ところがこのお方は、「わたしのもとに来なさい」と招いてくださるのです。私は、イエス様の前にこう申し上げました。「イエス様、疲れています。休ませてください」これが私の初めての祈りでした。それから先生に教えていただいたとおり、思い出すままに罪を告白しはじめました。「イエス様、私は同級生がみんな歩けなくなったらいい、などと妬んでいました。赦してください……。嘘もつきました。赦してください……」祈りながら、疲れもあっていつしか眠ってしまったようです。
 翌朝目覚めた時、今まで覆いかぶさっていた重荷がすーっと消えて、病気であることさえ忘れるくらい、心が喜びで沸き立っていたのです。あいかわらず戸板の上に身を横たえたままなのに。外を見たら、目に入るものすべてが新鮮で輝いています。庭の木々は、それまでは風に揺れるたびに私を死へと招いているように思えたのに…私は台所にいるおばぁに大声で呼びかけました。
「おばぁ、おばぁ。青葉がきれいだね。小鳥が歌ってるね」…おばぁは何事が起こったかとびっくりして出てきました。私がイエス様によって生まれ変わったことは、おばぁにもすぐにわかりました。おばぁの顔にも微笑みが戻ってきました。
 差し込む朝日の中で、久しぶりに二人でお茶を飲んでいる時、私ははっとして茶道具を見つめました。(あっ、この湯飲み、それにこの急須。それぞれが目的にぴったりした形に造られて使われている。そうだ、私も、神様の目的があって造られたのだ)それまでは友達への手紙にも、「この世に私ほど不幸な人はいません」などと書き、みじめだと言っては、おばぁと手を取りあって泣いていたのに。神様を信じたので、霊の目が開かれたのです。

 登喜子さんは自分で生きているのではなく、神様に生かされているのだから、何もかもイエス様にお任せする実感がわいてくる。この足を、イエス様が本当に必要としてくださるなら治る。もし、主のお心が別にあるなら、取り除かれてもいい。イエス様が一番いいようにしてくださる…。イエス様へのそんな確信と喜びが、心に満ちてきた。平良さんのように、病気という障害に縛られなくなった。思えば何年も寝返りを打てないのに、体には床ずれができていなかった。沖縄の暑い夏でも、細菌からも守られていた。すべてが主によって解かれたかのような解放感と、不思議な喜びと平安が、次々と心にあふれてきた。三か月後の一九五四年四月二十一日、15歳の登喜子さんは洗礼を受けた。その四年後の一九五八年、那覇のキリスト教集会で登喜子さんの足は奇跡的に癒される(20歳)。癒やしの祈りを受け、立ち上がって歩き出したのだ。登喜子さんは神学校(東京聖書学院)に入学、そこで出会った池田博牧師と結婚、「神様に癒やしをいただいてから六十年余、骨髄炎はまったく再発せず、骨は折れず傷まず、伝道、牧会、育児と日々忙しく立ち働いてきました」と登喜子師は記している。


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