2022年御翼8月号その4

 

不完全さを「あるもの」とする ―― 笹森建美先生 

「Bushido is the finest product of Japan. (武士道は日本国最善の産物である)」と、内村鑑三が大正5年に記している。「今やヨーロッパではキリスト教は滅びつつあり、物質主義の米国には、キリスト教を復活させる力はない。神は武士道の国、日本を世界の救いのために召し出しておられる。武士道それ自体には日本を救う力はない。但し、その武士道の上にキリスト教を接ぎ木したものが全世界を救う。神が二〇〇〇年かけて武士道を完成された日本の歴史には、世界的に意味がある」と。真理を重んじる武士道なしに、キリストの十字架の贖いは分からない、というのが内村鑑三の主張である。
 信仰が中途半端な人の特徴は、聖霊の実「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(ガラテヤ5章)を備えていない。また、信仰が成熟していない人は、「試験に合格しますように」などと祈る。一方、信仰が成熟している人は、「神の子としての性格が備わるように。神のご栄光が表せるように」と祈る。

 ある四十代の男性は長年、精神の情緒不安定を抱え、定職に就けず、親や兄弟に頼って生活していた。傍目には元気そうなので、周囲からはぶらぶらしていると見られる。このまま自分が生きていては迷惑なだけではないか。自分を責める気持ちが強くなり、病院でそう訴えたところ薬を増やされただけだった。これが続くと、死のうと考えてもおかしくない。このあたりは医者でも解決は難しいであろう。
笹森建美はこの男性に、魂、人格は神様から与えられたもので、それだけで価値があるという話をした。「ふらふらしたりする自分の不完全さについても、あるものと受け止めなさい。キリスト教では神様はそれでいいよと言っている。それを神の愛と呼ぶのだ。神は人間を道徳的に見たり、成績で測ったりしない。人間そのものとして見ておられる」と。
こうして面談を重ねると、その人の心の置き所が定まり、解決に向かうという場合は少なくないという。教会に来ているということ自体、既にその人は進みつつあるということでもある。そこで、あなたはあなたにしかない人格を与えられ、生かされているのだから、まず自分を大事にして、できる限りにおいて周りを大事にして生きなさいと話す。一方で、その人がなかなか解決できないジレンマに陥っていくときに、すべてを神様にお願いしてすがるという姿勢を教えた。この男性の場合は、うまく気持ちの折り合いをつけることができたという。
(以上、笹森建美『武士道とキリスト教』より)
「できる限りにおいて周りを大事にして生きなさい」という部分が、福音を正しく受け止めておられる笹森先生らしいご指導の仕方である。そして先生は以下のような小話を紹介しておられる。

他の宗教や主義では、不完全である「私」について、どう見ているでしょうか。
学校で七〇点取れば上のクラスに合格、それ以下は不合格というテストが行われました。すると六九点の学生が出てしまいます。
先生が共産党の人だったら、こう言うでしょう。「努力しなかったあなたが悪いが、満点の生徒は取りすぎだから回してあげま しょう。合格です」
先生がお坊さんだったら…「惜しかったですね。あと一点取れば合格でした。でもそれが人生と言うものですよ、諦めなさい」
先生がイスラム教徒だったら…「君が怠けたのだから、刑罰を受けなさい」
先生がキリスト教だったら…「あなたは一点足りなかった。その不足を補うために、上のクラスへ来て、努力しなさい」と、こういうものです。

キリスト教の先生は出来が悪くても認めてくれるのをいいことに、そこに胡坐(あぐら)をかいて、努力しないキリスト教信者もいるかもしれません。しかし本当に愛されることを知っていれば、自分を愛してくれる人にはそれ以上に応えたいというのが、人の気持ちではないでしょうか。


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