2022年御翼9月号その4

 

パスカルの賭け

 十七世紀のフランスの哲学者、物理学者、数学者、キリスト教神学者のブレーズ・パスカルは、恵みの神に出会った時のことを次のように記している。「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者や科学者の神とはちがった神。イエス・キリストの神。私は、自分を静かに、全くイエス・キリストにゆだねます。アーメン」と。そのパスカルは、理性によって神の実在を決定できないとしても、神が実在することに賭けても失うものは何もないし、むしろ生きることの意味が増す、と結論付けた。それを、「パスカルの賭け」と言う。
 以下は、パスカル『パンセ』からである(「パンセ」はフランス語で「考え」、「思考」、「思想」の意。「人間は考える葦である」という有名な言葉も『パンセ』の中にパスカルが残した言葉である)。
「神は存在するか、しないか。きみはどちらに賭ける?
― いや、どちらかを選べということがまちがっている。正しいのは賭けないことだ。
― そう。だが、賭けなければならない。君は船に乗り込んでいるのだから。」
 すでにこの世に生きている以上、この勝負を降りることはできない。賭けないということ自体が、結果的に一つの選択となるからだ。賭け金は自分の人生である。神が存在するという方に賭けたとしよう。勝てば君は永遠の生命と無限に続く喜びを得ることになる。しかも、君の人生は意味あるものとなるだろう。賭けに負けたとしても、失うのものは何もない。反対に、神は存在しないという方に賭けたとしよう。その場合、たとえ賭けに勝っても、君の儲けは現世の幸福だけである。死後は虚無とみなすわけだから、そこで得るものは何もない。逆に負けたとき、損失はあまりに大きい。来世の幸福をすべて失うことになるからである。しかしパスカルは、この賭けを受け入れること自体が十分な救済だとはしていない。賭けが書かれている節の中で、パスカルは自身の理解について、それが信仰の推進力にはなるが信仰そのものではないと説明している。
 「君は信仰に達したいと思いながら、その道を知らない。君は不信仰から癒やされたいとのぞんで、その薬を求めている。以前には、君と同じように縛られていたのが、今では持ち物すべてを賭けている人たちから学びたまえ。彼らは、君がたどりたいと思っている道を知っており、君が癒やされたいと思う病から癒やされたのである。彼らが、まずやり始めた仕方にならうといい。それは、すでに信じているかのようにすべてを行なうことなのだ。 
 ところで、この方に賭けることによって、君にどういう悪いことが起こるというのだろう。君は忠実で、正直で、謙虚で、感謝を知り、親切で、友情にあつく、まじめで、誠実な人間になるだろう。事実、君は有害な快楽や、栄誉や、逸楽とは縁がなくなるだろう。しかし、君はほかのものを得ることになるのではなかろうか。私は言っておくが、君はこの世にいるあいだに得をするだろう。そして君がこの道で一歩を踏みだすごとに、もうけの確実さと賭けたものが無に等しいこととをあまりにもよく悟るあまり、ついには、君は確実であって無限なものに賭けたのであって、そのために君は何も手放しはしなかったのだということを知るだろう。」


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