2010年10月17日

 

信仰に入るの動機  (内村鑑三全集32より抜粋)

 人は種々の動機に由つて基督教に入来る。其内で最も普通なるは身の不幸と困難とである。そして是れ決して悪い事でない。神は悩める人の子等を慰めんと欲し給ふ(マタイ伝11章28〜30節)。
 人はまた人生問題の好き解釈を得んとて基督教に入来る。或人はまた自己の利益を全然離れ、己が家族又は社会又は国家を善く成さんが為に基督教に入来る。今日の米国流の基督教は是であつて、社会事業が其主なる目的である。
 然れども以上孰(いず)れに由るも福音の真髄に入ることは出来ない。慰安、教養、事業を目的として基督教に入来る者は僅(わず)かに其外皮に接するまでであつて、福音の神殿深き処に神の御顔を拝することは出来ない。
 基督教に入る唯一の正道は罪の観念である。人が自己の罪に覚め、自己の永遠に罰せらるべき罪人たるに気附き如何にして其無限の呪詛(じゅそ)より脱するを得ん乎と思ひ煩ひて苦悶(くもん)し、救拯(たすけ)の途を探めて止まざる時に、神の備へ給ひし其聖子(みこ)が十字架の上に血を流して遂げ給ひし罪の消滅の福音に接して、之を信じ、之に倚(よ)り縋(すが)りて唯偏(ひと)へに天父の恩恵に依り、生命を授けられんことを祈求めて、罪の身其儘(そのまま)を聖前に投出すに至つて、初めて基督教の真理の何たる乎が判明(わか)るのである。

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