2010年5月2日

 

 「国民でも個人でも、善良な市民になるには先ず聡明になる必要がある。聡明な市民は無知な市民よりも非常に統治し易い。しかし、そういう市民の理智も、まだ道徳的に自己を支配するには足りない。もし、理智を持っているだけで、道徳的原理を欠くなら、隣人および社会に対して善をなすよりも害を与える方が多いであろう。
 そういう破壊的な理智を抑制するには、道徳的原理というものが存在しなければならない。それ故、日本政府は、人民に道徳的原理を教えるために何らかの手段を備え、又は、何等かの人物を容れなければならない。教育だけでは有徳な人間を作るに足らず、理智哲学や道徳哲学も同じである。 
 私は、人々がプラトーの哲学または孔子の書物を研究して有徳になった例を知らない。然し、これに反して、キリスト教には、人々を自由にし、強くし、有徳にする力がある。徳(○注善い行いをする性格、身についた品性)を愛する人間こそ実に真の人間であって、その人は自らを管理する方法を知っている。もし、日本人の各々が自分を管理する方法を知れば、政府は全国のあちらこちらに探偵を置く必要はなくなるであろう。もし、全国民が真理と徳を愛すれば、自治が行われて、政府の面倒はなくなるだろう。
 或る人々はキリスト教を単なる方便(○注目的のために利用する便宜の手段)として利用する。しかし、それでは、真の宗教とは言えない。キリストには真理がある。私たちは真理を真理として取るべきであって、単なる方便とすべきではない」
(1872年3月19日、新島襄が米国で父のように慕っていたバーディー氏に送った書簡からの抜粋)

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