2011年2月13日

 

以下は、内村鑑三の書いた「友」に関する文章である(聖句は佐藤 順が引用)。

友人論    明治34年7月7日 内村鑑三全集9より抜粋

友人の多い人は主義の無い人である、「誰でも好い」主義の人である、広量(くわうりやう)のやうで実は情の極く薄い人である。人の友情にも限りがある、彼は無限の富を有(も)たないやうに亦(また)無限の友情をも有(も)たない筈(はず)の者である、故に之を多くの人に頒(わ)け与へんと欲して其一人(にん)の受くる所の部分が甚だ軽少になるのは分り切つた事である。彼等は誰にも愛せられんとして実は誰にも愛せられない、昔し希臘(ぎりしや)の或る哲学者が僅に五六人を容(いる)るに足るの小さな家を作て酷く隣人に嗤(わら)はれた事がある、其時彼は答へて曰(い)ふた、「余に若し此家に容るゝの友人あれば足れり」と、彼は善く友情の何たるを知つた者であつたと思ふ。 (箴言18:24「友の振りをする友もあり/兄弟よりも愛し、親密になる人もある。」

友と敵  1909(明治42)年12月 内村鑑三全集17より

 友とは何ぞ、我が美点を認むる者なり、敵とは何ぞ、我が欠点を指(ゆびさ)す者なり、友は我が善を励まし、敵は我が悪を矯(た)む、我が向上を助くるに於ては敵は友と何の異なる所なし、我は我友を愛する如く我敵をも愛すべきなり。 (マタイ5:44「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」)

友人としての神 1906(明治39)年1月 内村鑑三全集14より抜粋

神は善き友人である、第一等の友人である、彼に祈?(いのり)を聴くの耳がある、恩恵(めぐみ)を施すの手がある、彼に愛心のあるのは勿論である、彼と語るは最も楽しくある、彼に頼むは最も安全である、アブラハムが神の友と称ばれしやうに、我等も神の友となりて其指導援助に与かるべきである。 (ヤコブ2:23 「『アブラハムは神を信じた。それが彼の義と認められた』という聖書の言葉が実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。」)

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