2012年3月4日

福澤満雄『主とともに歩む』(いのちのことば社)より

 二月の寒い朝、五時起床、冷蔵庫のように冷えきった礼拝堂。早天祈祷会に信徒の方々が集まるまでに会堂を暖めておくこと、そして、まず自らが祈っておくことのふたつが、牧師としての務めでした。
 私はストーブに火をつけ、講壇の前に座布団を敷き、ひざ掛けをあて、祈り始めました。祈りのノートには二百名以上の名前が記されていました。早天祈祷会の時間までに祈り終えたい。そんな願いから、祈りに拍車がかかりました。「神様、Aさんを祝福してください。Bさんをお癒しください。Cさんに良い仕事が見つかりますように」しかし、祈っている最中に、急に心の中にポカッと穴があいたように感じました。何とも言えないむなしさが全身を覆いました。座布団にすわり、ストーブで身を暖め、まるで自分が主人で、イエス様が下僕のようになっているではないか。私はここで一体何をしているのだろう。「主よ、主よ」と叫んでいるが、これが祈りなのだろうか。
 私はその朝から、このような祈りをやめました。弟子たちは、イエス様の祈っている姿を拝見し、その祈りの言葉を聴いたとき、自分たちの祈りと全くかけ離れていることに気がついたのでしょう。「私たちにも祈りを教えてください」と言いました。(そして)「神様、……してください」ではなく、「神様、私は何をしたらよいのでしょうか」と神様に聞く祈りを学び始めたのです。
 今も祈るたび、「主が目に見えるお姿でここにおられたら、本当にこのような祈りをするだろうか」と反省を繰り返しています。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです」(マタイ7:21)。主よ。今日も私に、祈ることを教えてください。アーメン。

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