2012年7月1日

キリスト教と神道をつなぐもの―フィールド・トリップ/能楽 上村敏文

 キリスト教と、神道を結ぶ端緒と成り得るのは、礼拝様式においてではないかと思います。…1984年7月、能楽宗家の一つである金剛(こんごう)巌(いわお)氏が、ローマ法王ヨハネ・パウロII 世に薪(たきぎ)能(のう)「羽衣」を奉納しています。日本の代表的存在である能が、キリスト教世界と再度、遭遇したのであります。
 今、私が「再度」と申し上げましたのは、遠く室町時代に、キリシタン大名達が、キリスト教を背景とした能を創作していたことが指摘されているからです。能の数ある作品のテーマを概観すると、神道、仏教、武士道、尊皇、親子兄弟愛、人間の妄執(もうしゅう)、嫉妬等々、非常に多岐にわたっています。この点からすると、キリスト教が16世紀に、日本の社会に入って来た時、キリシタン大名があるいは、能作者達が、この全く新しい宗教、素材に注目したのは、むしろ自然なことであったのではないでしょうか。
 能という日本の伝統芸能によって、キリスト教を土着化させようという試み、そして、神を表現する一つの方法として、中世の能作者達が神道や仏教を謡曲(ようきょく)詞(し)章(しょう)(能の謡(うたい))の中に織り込んでいった方法を、この新作能(「羽衣」)は意図していたわけです(主題は「イエズスの洗礼における神顕現の神秘」)。
 私達が信仰に帰依する誘い水となるのは、赤子が、母体の心臓音から「愛」を感ずるように、根源的な教えよりも、むしろその周辺的なものから出発する場合も、在りえるのではないでしょうか。私は、各民族が持っている「文化」が、その役割を担うのではないかと考えるわけです。「文化は宗教の形式であり、宗教は文化の内実である」とP・ティリッヒ(注・ドイツのプロテスタント神学者)は述べています。    
ルーテル学院大学神学セミナー編『多様性との対話』(AVACO)より抜粋

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