2013年3月17日 望みの錨

キリスト第一   (昭和2年・1927年・25歳)

 一切のことは主を第一としてゐるか、してゐないかによって美事に解決します。誠にそれは一目瞭然であり快刀乱麻を断つの概があります。キリストを第一としてゐない人は得をしてゐるやうに見えても大きな損をしてゐます。
 主を第一としてゐる人の話は聞いてゐて嬉しくあります、主を讃めしめられる聖霊の喜びを覚えて心楽しくあります。主を第一としてゐない人の話は聞いてゐて気の毒に感じます。話される人が聖霊の圧迫を感じてゐられるので、聞いてゐる者も主を讃美する迄(まで)に導かれ難くあります。主を第一としてゐる家庭は暖かくあります。親子の間、夫婦の間、兄弟の間、誠に暖かで恰(あたか)も春の日に崖の上から花園を眺めてゐる心持であります。
 口にて主を主よと曰(い)ひ、心にて又は生活にて主を主としてゐないならば何の価値もありません。一切の事情、一切の場合に於て主を第一としてゐるかゐないかは私達の運命を決します。余りに忙がしくて主を第一とすることが出来ないと云ふ人は、余りに忙しくて聖き生涯が送れないと云ふのと同一であります。
 主を第一としてゐない時、主に対して或は隣人に対して申訳の無いことの連続であります。国家も、家庭も、団体も、個人も、主を第一としてゐるか、ゐないかで、その生命、その存在の価値は決せられます。私達を本当に喜ばすもの、慰むるものは主以外に何物もありません。(途中抜粋)
藤尾英二郎著『主キリスト第一〈英二郎青春日記〉』(同信社)より

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