2013年9月15日 望みの錨

『祈りの意味』

 今でも、祈りはサンタクロースのような神的存在に、子どものようにお願いすることだと考えている人たちがいる。そんな祈りを戒めてルターは、「わたしたちは足や頭に痛みを覚え、財布が空になっているときだけ祈りを尊び、神の名を呼んでいる」と語っている。危機に際してのみ発作的に叫ぶ祈りは、祈りを全く自己中心的にするという有害な結果を生む。
 人が、神は神の子たちに、賢明で最善の計画を持っておられることを確信するならば、自分の生活を神に明け渡し、神が成そうと望まれることをわたしたちのうちになされますようにと願い努めるようになるはずである。この真理の光に照らされて、「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)というゲッセマネにおける主イエスの祈りを考えてみよう。それは、神から何かを得ようと乞うことではなく、神と協力することを願うことである。
 神は山中に大理石を貯えておられるが、決してみずから働いて大理石の殿堂を築くことはなさらない。神が山に鉄鉱石を蔵していても、決して自ら針や機関車を造ることはなさらない。人が労働するときにのみ、それらは出来上がるのである。ヴァイオリンの製造者ストラディヴァリウスの言葉を回想しながら、ジョージ・エリオット(十九世紀の英国の代表的作家)は、彼に次のように語らしめている。
 いかなる名演奏家も、わたしの[造った]ヴァイオリンを
 あごにはさみ、手に持つとき
 ヴァイオリン製造者、最高のものを造った
 ストラディヴァリウスが生きていたことを喜ぶであろう。
 神が彼らに演奏の技術を与えられたので、わたしは演奏できるようにと
 彼らに楽器を与える。
 神は彼らを助けるようにとわたしを選ばれたのだ。
 もしわたしの手を緩めて、ヴァイオリンを造らないままでいたら、
 わたしは神を、―― 神は最上のお方だから―― 荒すことになる。
 神は、アントニオ〔の協力〕なしに、
 アントニオ・ストラディヴァリのヴァイオリンを造ることなどなさらない。
      H・E・フォスディック『祈りの意味』(新教出版社)より

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