2014年10月26日 望みの錨

いのちの使命  日野原重明『3.11後を生きる「いのち」の使命』

(日本キリスト教団出版局)より
 今回の震災では生きること、死ぬことがはっきり二分されてしまいました。残された人と死んだ人と、二つに別れた事実に対してそれをどう解釈するか、そのことを私なりに考えてきました。特に生き残った人、そのことを負い目として感じている人に伝えたいのです。あなたの人生には(生き残った者としての)使命がありますよ、と。
 キリスト教の信仰では、すべてのいのちは神様がお造りになったと考えます。すべてのいのちは自分のものではない、与えられたものなのです。だから、与えられたものとして大切に生きていかなければならないのです。もちろんそれは、…今回のように震災で、また病気で、交通事故で、人のいのちが突然奪われることがあります。
 しかしだからと言って、いのちに意味や使命などないのだ、人のいのちは陽炎(かげろう)のようにはかないのだと思い違いをしてはいけないと思うのです。むしろいのちが突然失われることがあるからこそ、生き残った人には亡くなった人のいのちと人生に意味を見つけ、自分に与えられたいのち、残されたいのちを十分に生ききる使命があると思うのです。
 残された者がそういう意志をもって生きる、復興への努力を重ねる、そのことがまた、亡くなった人のいのちを意味あるものにするのではないかと思います。「一粒の麦」(ヨハネ12:24)とはまさにそのことです。麦の種は土に落ちて一旦は死んだように見えますが、そこから新しい芽が出てきて実を結びます。もし私たち生き残った者がこのことを信じて、亡くなった者のいのちと人生が一粒の麦であり、意味のあるものだったということを信じて、残された者としての使命に生きるなら、それによって死んでいった者のいのちは贖(あがな)われるのではないでしょうか。いのちが贖われるとは、死んでいった者のいのちに意味が与えられるということです。

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