2014年10月5日 望みの錨

 

私が生きている理由  (細井 順『希望という名のホスピスで見つけたこと』より抜粋)

    手術後五年を経た頃から、私と同じ腎がんの患者さんに特に関心を持つようになった。再発する患者さんと私とはどこが違うのだろうかということである。私はなぜ、転移をきたさないで生きながらえているのだろうと、その意味を考える。

 健康管理に留意し、再発を予防するために食事を制限し、適度な運動なども続けて、自分に厳しく生活しているからであろうか。がんを防ぐと謳われているサプリメントを続けてきたからであろうか。いずれも「否」である。そのようなことは考えたこともないし、やってもいない。私は、世のためになっている、生きるに値するから生きている。神によって役割が与えられているから生かされている。この世にまだやることがあるから生きている。これらも「否」である。私などよりも、もっともっとこの世の役に立っている人ががんになって死んでいる。生きるに値するかどうかなど、人間の身勝手な思い込みに過ぎない。

 結論として言えることは、自分自身の中に私の生きなければならない理由は見当たらない。では、なぜ、生きるのか。答えは自分の中にはないと思う。自分の努力によってこの一日を獲得しているわけではない。「百パーセント生かされている」ということは、「私自身が生きている訳でなくて、神が私の中で生きている」ということだ。「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられる」(ガラテヤ二・二〇)という聖書の言葉を思い出す。この言葉を記したパウロは、ダマスコ途上で顕現したキリスト・イエスに出会った。私にはそのような経験はないが、生まれてからこの方、神の導きの中で過ごしてきた。もちろん人生途上には、思い返すことも恥ずかしい出来事もあり、口にできないこともある。そういうことも含めて、今日の私の心境に導かれているのだと思う。人生に過去はなくて、すべての事柄は今日の日を作る礎になっている。そう思うと、とてつもなく大きな力が私に働いていると思わされた。その結果、自分に死んで、神(キリスト)に生きるという人生観を持つに至った。

 「私は神が働く場になっている」―― そう考えるに至って、生死の問題が重要な問題とは思えなくなってきた。生きているか死んでいるかは大きな問題ではないのだ。特別に、生きたいわけでもなく、死にたいわけでもない。生も死もない。どっちでもいい。ただ、今日この日、悔いのないように、自分に課せられていると思うことをするだけでいいのではないだろうか。何しろ、神の働く場としての一日をこなしていくだけである。実際に神の働く場になっているかどうかは、神自身が判断するであろう。必要なければ取り去られるだけのことである。

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