2014年2月23日 望みの錨

 「わたしにはまだ死ぬという仕事がある」と、以前にはよく妻(三浦綾子1999年召天)が言っていた。「死ぬという大切な仕事」を成し遂げたと言えば、イエス・キリストに較べうる者は人類史上一人もいない(「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった」ヨハネ3:16)。愛なる神は人間を罪から購おうとして、キリストをこの世に遣わした。購うとは「買い取る」ことと聞いている。買い取る以上代価がいる。その代価が、神のひとり子というわけである。
 ヨハネによる福音書の冒頭に、その次第が書かれている。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は初めに神と共にあった。すべてのものは、これによってできた。…この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。」(1章1〜4節、口語訳)「初めに言あり」の言はギリシャ語のロゴスだそうだ。ロゴスはもともと「宇宙に内在する神秘的原理」を指したものだという。つまり、私たちが口から出す、いわゆる人間の言葉そのものを指しているのではない。神の知恵を指しているのである。ロゴスを「言」と訳すまでには、真理、力、知恵、叡知(えいち)などなどの訳語が候補に上ったという。問題はこの「言」が、神からきた救い主イエス・キリストであるということだ。十字架刑にキリストがかけられたのは、人類の罪のゆえであり、本来人間が受けるべきところを、キリストが代わって受けてくださった。十字架の重荷を背負われたのが、キリストの大いなる仕事であった。
 人間は死後どうなるか。聖書の随所に復活について書かれている。この復活について思い出すことがある。赤ん坊で死んだなら、赤ん坊の状態でよみがえるのか、老人は老人の状態で復活するのかという、疑問をかつて読んだことがある。もう一つの考えとして、人間の最も盛んな状態で復活するという説も、何かで読んだことがある。今思うと、二つとも、現存する地上の命から、どうしても離れえない推論のような気もする(マタイ 22:30「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」)。いずれにせよ、私たちの想像をはるかに超えた時間と空間が、未来に備えられているのは確かであり、それだけに、この貴重な人生を畏れをもって生きなければならないということであろう。
 ということになると、綾子が死んで、いま、どこにどうしているのか、さだかではないとしても、再会の望みをいつも確認していてよいのであろう。むろん、この世における妻としての存在を、そのままひきずるということではなく、もっと確かな存在としてである。そのためには、やはりこの世における生き方が問われるはずである。そして所詮、赦されなければどうしようもない人間であることに思いは至る。帰するところは、やはりキリストの十字架を仰ぐ以外にはない。      2000年5月2日  三浦光世
   三浦光世『死ぬという大切な仕事』(光文社)より抜粋・要約

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