2014年4月6日 望みの錨

「天災と刑罰」

 

    内村鑑三「聖書の研究」明治39年(1906年)5月10日号より   
 天災は、読んで字の通り、天災であろう。即ち天然的現象であろう。地震は地層の波動であろう。噴火は地熱の放発であろう。これには何も怪しむべきところはあるまい。天災には意志もなく、道理もあるまい。したがって、これは神の刑罰ではあるまい。
 しかしながら、神は無意識の天災を刑罰として使われる。天災が悪人の上に落ちてきたのであれば、これは即ち神の刑罰である。悪人は既に神に呪われた者であるから、天災はその呪いを実現する。しかり、天災そのものは刑罰ではあるまい。しかし、悪人がこれに遭遇すれば、天災は確かに天罰である。
 では、義人がこれに遭遇すればどうかと問う人もいるであろう。しかり、義人がこれに遭遇すれば、天災は天罰ではなくて、良い試練である。彼がもしこのために命を落とすのであれば、彼は神に召されたのである。彼がもし天災により財産を失うなら、それは彼が霊において富むためである。義人は既に神に恵まれた者であるから、天災は却ってその恵みを実現するに過ぎない。
 「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。」(テトスへの手紙1:15より)。実にその通りである。神を愛する人には、天災も死も刑罰ではない。恩恵である。これに反して神を畏れず、肉の欲に仕える他に生涯の目的が無い不信者に取っては、呪いでないものはない。彼らに取っては、天災は恐るべき最終の主の裁判の日の前兆である。「第二の死」(黙示録20:6より)の先駆けである。
(常用漢字、現代仮名遣いに変更、聖書からの引用は、新改訳に置き換え)

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