2014年6月22日 望みの錨

献 金

   

 佐藤陽二『キリスト教入門』(アンカークロス出版)pp.75-76より
 神は、お金を必要としておられるのではない。必要としているのは、人間である。人間が伝道のために、金銭を必要としている。そこで、神とイエス・キリストとは、そのような人間の、愛の行為を喜ばれるから、これを献金と称しているのである。
 したがって使徒パウロは、聖書の中で次のように述べている。「わたしの考えはこうである。少ししかまかない者は、少ししか刈り取らず、豊かにまく者は、豊かに刈り取ることになる。各自は惜しむ心からでなく、また、しいられてでもなく、自ら心で決めたとおりにすべきである。神は喜んで施す人を愛して下さるのである」(コリント第二・九章六、七)。
 藤尾英二郎先生は、こう言われる。「献金は主様と自分の関係において、めいめいが心に決めて実行すべきものであるが、わたし自身の体験からいうと、たしかに主は『天の窓を開いて』『あふるる恵みを注いで』下さったのを見たのである。聖言に阿呆(あほう)正直に従っただけで頂いたこの大きな祝福を人に告げずに黙っていては、自分だけ良い目にあってずるいようにも思われるので遺言のつもりで発表するわけである。わたしが晩年主から受けた祝福は、もとはといえばこのマラキ書三章九、十節の聖言なのである。大事なことは十分の一『全部』ということである」。(マラキ3:10「十分の一の献げ物をすべて倉に運び/わたしの家に食物があるようにせよ。これによって、わたしを試してみよと万軍の主は言われる。必ず、わたしはあなたたちのために天の窓を開き祝福を限りなく注ぐであろう。」)
 ロバート・H・シューラー博士は、次のように言っておられる。「私は子供の時から父に、おこづかいのことで、こう言われた。たとえば、人から十ドルを頂いたとする。その時は、まず一ドルを神に捧げる。次にもう一ドルは、銀行に預金する。後の残りの八ドルを自分のこづかいにするのだ。そこでいつでも、そのようにして来たので、今に至るまで、お金で困ったことがない」。

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