2016年6月5日 望みの錨

 

キリスト第一 藤尾英二郎 昭和2(1927)年 25歳

 一切のことは主を第一としてゐるか、してゐないかによって美事に解決します。…キリストを第一としてゐない人は得をしてゐるように見えても大きな損をしてゐます。
 主を第一としてゐる人の話は聞いてゐて嬉しくあります、主を讃めしめられる聖霊の喜びを覚えて心楽しくあります。主を第一としてゐない人の話は聞いてゐて気の毒に感じます。話される人が聖霊の圧迫を感じてゐられるので、聞いてゐる者も主を讃美する迄に導かれ難くあります。どの様に拙(つたな)い話でも、主を第一としてゐる人の話は輝きがあります。主を第一としてゐる家庭は暖かくあります。親子の間、夫婦の間、兄弟の間、誠に暖かで恰(あたか)も春の日に崖の上から花園を眺めてゐる心持であります。…主を第一としてゐない雑誌、パンフレット、書物は、持つ手が冷たく感じます。主を第一としてゐる刊行物は聖霊の喜びがあります。…主を第一としてゐない当時に買った書物を見ますと、繰返し読んで見るものは殆ど稀であります。…
 余りに忙しくて主を第一とすることが出来ないと云ふ人は、余りに忙しくて聖き生涯が送れないと云ふのと同一であります。主を第一としてゐない時、主に対して或は隣人に対して申訳の無いことの連続であります。国家も、家庭も、団体も、個人も、主を第一としてゐるか、ゐないかで、その生命、その存在の価値は決せられます。…
 主から与へられた一生を『熱きにもあらず冷かにもあらず只(ただ)ぬるく』主を信じて送る人を誠に気の毒に存じます。それは御馳走の上へ灰を振りかけて食べる様なもので、同じく食べ乍(なが)ら、折角の佳味を味ひ得ずに終るのと同一であります。    
 藤尾英二郎『主キリスト第一』(同信社)より抜粋

                                            

バックナンバーはこちら HOME